01

この世に悪魔が産まれた時、人々はなぜ放っておいたのか、子供の時から疑問だった。災いをもたらすその存在を、その芽を積んでおかなかったことに。それだけでこの後、この世に降り注ぐはずの厄災が防げたというのに。

「お父様。どうして、悪魔は産まれて、放っておかれてしまったのですか?」

枕の代わりになりそうな分厚い本を抱えて、父の顔を見上げた時、僕はよく覚えている。何も知らない僕を愛おしく思うような、そういう、慈悲に似た瞳をしていた。無知に育っている僕を責めようともしないで。

「悪魔は、元々天使だったからだよ。きっと天使は、悪魔を殺すことなんて、出来なかったのだろうな……友達で、家族だったんだから……」
「…………けれども、産まれてしまった悪魔を放っておくのも、殺してしまうことと同じくらい、罪深きことなのではないでしょうか」

だって、彼がやっていることを正してくれる人も、その側にいないのだから。
父は少し、驚いていたようだった。本当に僕が小さな頃の、昔の話だから、記憶は薄いけれど。

「……おまえはきっと将来、貴族の身として、苦しむことになるかもしれないな」

貴族は、放っておかなければいけないから。
僕は今、その言葉を身にしみるように体感している。





日本ではあまり類を見ない貴族と呼ばれ、任された地域を治めていた、天道という家があった。立派な屋敷を構え、市民思いの主が住まうと周りからの評判も上々で、汚点など、何一つないように見えた。
天道聖璃は、その一人息子だった。優しく、時に厳しく父と母に育てられた聖璃は、勉学こそ苦手だったが、感受性豊かな立派な子どもに育っていった。小学校に上がり、私立学校の二年生になっていた。

しかし、血の匂いと悲鳴に包まれたある夜によって――それは一変したのであった。

「討伐団への連絡はまだか!?」
「電話線が切られています!」
「能力が使える者は――」
「正司様も外に出掛けておられます、屋敷にすべての戦力を集めてはおりますが、このままでは……!」
「急げ!とにかく急げ、アリア様と聖璃様の無事だけは死守しろ!!」

(……なんだろう、外が……)

深夜目を覚ました聖璃の目の前は、暗闇に包まれていた。声だけ聞こえるものの、窓にはカーテンがしまっているし、扉には鍵がかけられている。部屋のベッドから降りて、まだ小さな手を懸命に動かし、懐中電灯を掴んだ。
丸く小さな光を頼りに、まず部屋の明かりのスイッチをつけようとしたが、停電でも起こったのか、反応がない。仕方なく、窓を遮るカーテンを開けた。

「………………わ……」

赤く、揺らめく陽炎と、人に埋もれた庭が広がっていた。本でしか見たことのないけものと、つい夕方に挨拶を交わした家臣が剣や槍を手に持ち、戦いを繰り広げている。
腹の底から、「拒否」がこみ上げた。見ては、聞いては、感じてはダメだと、身体が叫んでいる。

「っ……わ、う、うわ」
「聖璃!聖璃、そこにいますか!?」
「おかあ、様っ!」

必死に扉を叩く音に、聖璃は弾かれたように駆け出した。背伸びをしてドアノブを捻って開けると、白いネグリジェの腕に抱き締められる。

「聖璃!良かった、無事だったのですね……」
「はい……お母様、これは……」
「話は後です……!」

血相を変えて走り出す母の手を、離れないようにと繋ぎ返すので、精一杯だった。屋敷を走り抜け、裏口から飛び出す。冷たい風を感じた。表では炎が燃え上がっているのに、裏口からの抜け道は静まり返ってきて、心臓の音だけが聞こえてきた。胃が、ひっくり返り、溶けてしまいそうだ。

「……――……」
「?」

ふわり、と。偶然にも、風の流れが、聖璃の耳元に吹きかけられた。その場で足を止めた聖璃は、森に一本作られた抜け道から、生い茂る木々の向こうに目をこらす。

「聖璃!何をしているのですか、早く」
「お母様。……唄が、聴こえるのです……」

「……――」

それは確かに、幼い子どものような声だった。くちぶえ混じりに、その「音」は、確かに聞こえたのだ。聖璃の耳に、その空っぽな心が。

「僕は…………お母様、先にお逃げください……!」
「きゃ……聖璃!?聖璃、待ちなさい、聖璃っ!」

母の手を振り払い、感じるがまま、囁かれるがまま、聖璃は走り出した。くつを履いていない足の裏が、整備されていない茂みを通り、木の枝を掠め、石を踏み、血と痛みが滲む。唄は徐々に近付いていた。
目の前が虹色に歪むような気がした。何かに酔わされる、とは、大人でもないが、こういうことなのだろうか。
これが、導かれるということか。

「――き、ゆくもみじ……波に揺られて、離れて寄って……」

何の偶然か――その子も、裸足だった。ボロボロの、穴だらけのパジャマを着て、木々に丸く囲まれたような、少し拓いた場所に立ちすくんでいた。パジャマからは傷が滲んだ褐色の肌が覗いて、短く切りそろえられた黒髪は、赤黒くなっていた。

「もみじ?」
「……ああ。知っているんだ」
「前に音楽の授業で、教えてもらったから……」

褐色の子は、ぼやけた赤い瞳を、燃え上がっている表の景色に向けた。黒い煙が空を覆っている。雷雲より分厚い黒い層が、星を遮る。

「……あれ、モミジだろ」
「ど、どこが?」
「赤いところ」

どこまでも淡白な言葉に、聖璃は首を傾げた。聖璃には、どうしてもそうは思えなかった。

「赤い、かもしれないけれど、もみじは綺麗で、あれは……黒くて、怖いよ」
「ふーん」
「……あの、僕は、天道聖璃。君の名前は?」
「ない」

きっぱりとした返答に、目を丸くする。

「ない?」
「ない。俺の名前は、もう、どこにもない……。ただの、猿だ」
「人間、だろう?」
「名前のない人間なんて、ただのマシラだって、ジジイが言ってた」
「ましら」

猿、ということを、言い換えたような言葉。ううん、と小さく唸って、聖璃は口を開けた。

「しましま、みたいだ」
「しましま?俺は馬じゃねぇ」

初めて、褐色の子は、不機嫌そうに眉を潜めた。猿ということには、案外、こだわりがあるらしい。聖璃は慌てて口を出す。

「じゃあ、しま。しまって名前は、どう?」
「名前?俺の?」
「そう。そしたら、もう人間だろう、ね」

ほころぶように笑う聖璃を見るしまは、無表情に、じっとガラス玉のような瞳を向けるだけだった。やがて、じっとりと流れた時に押されるように、頷いた。

「分かった。俺の名前は、しまだ」
「……しまは、逃げないの?」
「どこに」
「外に。いずれここは燃えてしまう」
「……どこ行っても、同じだからな」

ふう、とひとつついたしまのため息は、軽そうで重かった。ガラス玉のような瞳は、どこかに生命を置いてきたような色をしていた。

「僕と行こうよ、しま」

すんなりと出た言葉にしては、確かな決意があった。聖璃は貴族の白い手を、その赤黒い手に向かって差しのべる。しまは、きょとんとしてそれを眺めていた。

「僕のお父様も、お母様も、きっと、許してくれる……僕はひとりで、兄弟がいないんだ。お母様に掛け合って、一緒に住めるように、頼んでみるよ」
「なんで?」
「だって、行くところがないんだろう。ないのを作るのが貴族の仕事だって、お父様が言ってた」
「そうか。じゃあ、仕事なら、行かないとな」

ふたりは手を取って、殺気立った静かな森を、裸足で歩き出した。聖璃が手を引くと、しまは、本当に言われた通りに歩き出してくれた。肩を並べると、身長がそこまで変わらないことに気付いた。

「しまは、何歳?」
「八歳」
「あ!僕と一緒だ。僕も八歳」

ニコニコと喜ぶ聖璃に、しまは無感動にぽつりと呟いた。

「兄弟になれるのか、それ」
「双子ってことにすれば良い。双子は一緒に産まれるから、歳が同じでも大丈夫なんだ」
「双子……顔にてないと、ダメじゃなかったか」
「世の中には、顔が似てない双子だっているよ」

だから平気だと、そう言うように、手を繋ぎ直す。
天道紫魔の生命の鼓動の糸は、こうして聖璃と繋がったのだった。