02

「お願いしますお母様、僕は……何でもします、今までよりずっと勉強を頑張ります、えっと身体も鍛えます、だから……」
「……ふふふ。聖璃、それだとまるでペットを飼うみたいじゃない」

くすくすとおかしそうに笑う母の言葉に、聖璃は慌てて紫魔を見た。繋がれた手の先にいる紫魔は、やはり、赤いガラス玉のような目を、ぼんやりとシャンデリアが釣り下がった天井に向けているだけだった。


  02


一晩の悪夢は、終わってしまえば本当に夢のようだった。街並みはボロボロに崩れてしまってはいたし、燻る煙は今でもあちこちから消えてなくならない。すべてが元通りになんて簡単にはならないけれど、天道家の元に集う町民は誰もが逞しかった。

「わあ……すごいなあ、紫魔、見てごらんよ。人があんなにいっぱい来て、壊れた噴水を直しているんだ」

聖璃は部屋の窓に貼り付いて、外に釘付けだった。つい先日に魔物が入ってきた噴水の庭は、わいわいと人で賑わっていた。紫魔は部屋の隅に座っていたところを、立ち上がってとことこと聖璃の元へやってくる。窓の外を見る目は、無感動だけを映している。

「……見たけど、別に」
「感じない?」
「ああ」
「君に、感動してもらうには……どうすれば良いのかな。あ!僕の好きな本、読む?」
「良いぜ」
「ちょっと待ってね、えっと」

聖璃はベッドの隣にある立派な本棚から、一冊の分厚い本を出した。クリーム色の表紙で綴られたそれは、絵本でなければ教科書でもなかった。

「紫魔は聖書って知ってる?」
「知らない」
「そっか……僕も難しいからよく知ってる訳じゃないんだけど、キリスト教のものを元にして、お母様が僕にわかりやすく読んでくれたやつがこれなんだ」

ベッドの上にばふんと質量のある音を立てて置かれた本は、まだ紙が新しくてピカピカしている。本を開くと、紫魔が聖璃の横に近寄ってきた。
ベッドの橋に座ってページをめくる聖璃と、その向かいに座った紫魔の間には、至って平和な時間が流れている。

「どこが良いかな……。感動したところって言われると、難しいなあ。僕には分からない言葉も多いし」
「分からないのに好きなのか」
「だってかっこいいもの。聖書って神様の話なんだよ。人間も出てくるけど、いいなー、僕も神様に認められたい」

飽きたのか、仰向けに寝転がって、ぱたぱたと足を手持ち無沙汰に動かす。紫魔はその間に本を覗いて、代わりにページをめくり始めた。

「神様も……戦争とかするんだな」
「うん。やり方がやだって天使が戦争を仕掛けてきたこともあったよ」
「ふーん……そんなすごくないんだな、神様って」

呆れたような呟きに、聖璃は寝返りを打ってうつ伏せになると、紫魔を見上げた。

「すごいところもあるよ?身体の一部から子どもができたりとか」
「よく知ってるな」
「こんなことばかり知ってるから、算数とか全然できないんだけど……」

えへへ、と聖璃が誤魔化し笑う。テストをもらってきて親に見せることを戸惑うようになったのは最近だ。結局嘘をつけないから見せてしまうのだけれど、低い点数を見る親のがっかりした顔は、聖璃にとって何よりのくすりだった。

「紫魔は頭良いの?」
「……さあ」
「学校は?」
「行ってない。親が、カネがないからって。けど知ってることは知ってる」
「お金が無いと、学校に行けないんだ……」

驚きに目を瞬かせる聖璃は、紫魔の横顔を見つめた。短く切った黒髪と、キッとしたつり目に、濃い褐色の肌。男にしては長い淡い金髪と、垂れた目と白い肌を持つ聖璃とは、まるで正反対のようだった。
ふかふかのベッドに頬杖をつきながら、自分の家の住人になった実感を沸かせようとしても、からっぽなままだった。ビー玉に似た目といい、どうも生気が感じられない面は、住人と言うより拾った人形の方が合っている。

「字は書けるし、読める。計算もできる。あとは歌とかくらい」
「じゃあ、学校に行っても大丈夫だ。僕のクラス、国語の時間で教科書読めない子三人はいるんだもの」

ふたりで学校へ歩く道を想像して、聖璃はワクワクした。転校生として前に立って、紫魔が紹介をされる、そんな漫画のような展開が現実になろうとしている。

「休み時間はね、僕は図書室に行って本を読むのが好きなんだ。外で遊ぶのも良いけど、ドッヂボールは痛いからちょっと苦手で……」
「ドッヂボール?」
「えーっとね、人がたくさんいて、チームがふたつに分かれて、ボールをぶつけ合うんだよ。当たったら相手のチームの後ろ、外野っていうんだけど、そこに行く」
「へー……」
「顔には当てちゃ駄目だよ。紫魔は運動好き?」
「多分。走るのは早い」
「じゃあ学校が始まったら、僕も一緒にやるよ。紫魔は最後まで残るかなあ。そういえば、君の部屋だけど、ベッドとか用意するからしばらく僕と一緒に生活するって」
「それさっきも聞いた」
「あれ?そうだっけ」

聖璃は空中に視線を投げて、記憶の糸を辿る。窓に張りつく前、部屋に一緒に入ってきたばかりの時、思えば聖璃は一言そう言っていた。あー、と間の抜けた声が出る。

「そうだった!紫魔は頭良いね」
「良いのか?」
「記憶力があるのは良いってお母様が言っていたから、きっと。学校楽しみだね」

自分のことのように笑う聖璃に、紫魔は不思議に感じながらも、とりあえず首を上下させておいた。





夕日が沈んで、食事と風呂を終えた後も、外は未だにぎやかに壊れた噴水を囲んでいる。おやすみ、と電気を消された後で、二人がベッドに潜り込んだ後も。聖璃はごそごそと身動きをして、紫魔へと顔を寄せた。

「紫魔。起きてる?」
「ああ」
「すごいね。外、まだやってるよ」
「……」

カーテンの向こうはいつもより明るい。きっと何らかの大きなライトでも持ってきて、広場を照らしているのだろう。切り離されたように真っ暗な四角い部屋の中で、ふたりは身を寄せ合う。

「ねえ、紫魔。僕、こうして他の人と寝るの、初めてなんだ」
「?」

夜目のきかない赤い瞳が、声の方へと向けられる。輪郭はぼんやりとしていたが、紫魔へと顔を向けられていることはよく分かった。

「お母様も、なんだか忙しくて。僕は長男だから、召使いに頼むとかも、ダメな気がして……。だから、昨日の夜やったことは、良かったなって思ったんだ。家族が増えるって素敵なことだよ」
「素敵なこと……か」

紫魔は視線を外して、天井を見上げた。吊り下げられた明かりは、ぼやけた記憶の中で揺れているものと、まったく異なっていた。ゆっくりと目を閉じると、声だけが聞こえてくる。

「明日も明後日も、紫魔は天道紫魔なんだ。僕は今日の今のことを、絶対に忘れないよ。僕の双子」

他向けられたのことない、嬉しさと優しさで溢れかえりそうな声色だった。返事をしようとしたが、それより先に眠気と気だるさが勝ってしまって、そのまま紫魔は深い眠りへと沈んでいってしまったのだった。



――――――


「つまらない。ジジイ、つまらない時って、どうすれば良いんだよ」

ジジイは、小汚い裏路地で、ボロボロの帽子を深くかぶって座り込んでいた。そこは確か毎日の遊び場で、それでもジジイは顔を見せてくれないから、結局顔は覚えられじまいだった。無精髭は生えていた。笑った口からは抜けた歯の隙間が三つはあった。

「なあに、簡単な話さ。刺激を受ければ良い」
「シゲキ」
「嫌でもつまらないなんて思わなくなる。そうだな、例えば――」

覚えている。本当の俺の名前も、どこに住んでいたかも、あの時俺が何をしたかも、全てを思い出せる。
「今なら」思い出せる。ただあの時は、忘れてしまったんだ。「敢えて忘れた」んだ。
思い出せるくらいは、俺は強くなったぜ、ジジイ。けれどお前には礼なんて言ってやらねえよ。あの時もっと手っ取り早く教えてくれてたなら、俺はこんな回り道をしなくて済んだんだからな。

「ま、ひとつ言えることは…………お前はたった今、ただのマシラになった訳よ。名前の呼ばれない人間なんて、ただの猿、マシラだからな」
「…………マシラ……」

ただ、すべてを燃やし尽くす業火の前で言ったお前の言葉は、本当に正しかった。天道紫魔になった今は、それを実感するのさ。
俺はあの日から天道紫魔になった。あの日からの出来事はほとんど覚えている。なんせ、俺は頭が良くて記憶力が良いからな。
なあ、聖璃。意外と覚えてるんだぜ、俺も。あんな今のようで昔の話もよ。