03

時はゆっくりと寛いでいるようで、実に慌ただしく聖璃の横を走り去っていった。本棚に詰められた本は歳を重ねるに連れて増えていったが、昔の本から順に埃を頭にかぶっていった。
真っ赤な絨毯の真ん中を踏んで、ブレザーの制服を身にまとった聖璃は正面を見据えていた。その面持ちは明るくはない。格式高い机に、通知表を広げた父親は、聖璃と打って変わって優しい目でそれを見つめている。

「中学も一年が経ったか。頑張っているようじゃないか、聖璃」
「いえ、僕は」
「小学生の頃は後ろから数えた方が早かっただろう?それに比べたら随分な成長だ」

父の言葉は、純粋に聖璃を慰めていた。父も母も、今も昔もその優しさはまったく変わっていない。時に厳しいことを言う時もあったが、成績というものに関しては、紫魔が来てからもこのような調子だった。
変わったのは聖璃だった。

「紫魔は……クラスで一番でした」

曇った表情からこぼれた言葉は、部屋の空気を少しばかり重くした。

「……ああ、私にも通知表が届いているよ。しかし聖璃、お前も頑張って」
「それだと駄目なんです、お父様……。この家の跡継ぎは僕より頭の良い紫魔じゃなくて、僕なんです。それだけは変えられないんでしょう?貴族のルールで」
「確かにな。だがな聖璃、何もお前一人に背負えと言った覚えはないぞ。紫魔と一緒に支えていってくれたらそれで良いんだ。そこを負担に思う必要はない……分かったか?」
「……はい。失礼します」

程よい返事をしながらも、曇りがかった不満は一向に消えなかった。聖璃はそっと頭を下げると、踵を返して、聖璃の部屋よりも一回り大きい扉を開けた。夕方の屋敷は夕食の支度でシェフが慌ただしい。しかし廊下を行き交う人間に紛れて、すぐそばの壁に悠々と寄りかかる人影があった。
屋敷に褐色の肌が目立つ人間は一人しかいない。聖璃は目を丸くして唾を飲んだ。

「紫魔。聞いていた……のか?」
「耳は良いから、聞こえた。それだけだ」

相変わらずの淡々とした返しに、聖璃はどんな顔をすれば良いか分からず、目を逸らした。紫魔はいつも通りの無表情を貫いていて、どんな思いなのか読めない。視線をさ迷わせていると、紫魔が口を開いた。

「俺もおとーさま、から呼び出しされたから」
「そ、そうなのか。……成績のことかな」
「多分」

紫魔は寄りかかっていた体を壁から起こすと、平然と聖璃の隣を通り過ぎようとする。聖璃は咄嗟に振り向いた。

「紫魔」
「ん」
「……その……何て言っていいか分からないけれど……」

聖璃はおずおずと顔を上げた。未だ、出会った時の変わりのないビー玉のような瞳が聖璃を見ている。

「お前は何も、気にしなくて良い……とも、違うけど……一番で、良いからな」
「?」
「僕はクラスで十番だったし、紫魔に勝てる気は全然しないけれど……僕がもっと頑張らないといけないんだ。一番の紫魔に勝ったら、きっと天道家を継ぐ人間として相応しくなれるから」

紫魔はふいとそっぽを向いた。

「俺は別に、気にしてないけどな」
「あはは、それもそうか……僕が気にしてるだけだな……」
「……聖璃」

苦笑を返すしかない聖璃を、もう一度紫魔の目が見つめた。無理矢理やる気を奮い立たせようとするその姿を、紫魔は頭の先から足の先まで見回す。

「お前のシゲキは、天道家か?」
「えっ?……刺激……?」
「……分からねえなら、別に」

紫魔は静かに聖璃から離れていく。聖璃は何とも言えず、話しかけようと伸ばした手を引っ込めた。止めたところで結局質問には答えられない。
父の部屋へと入っていった紫魔を見届けて気付いた。紫魔の方から問いかけられたのは、記憶の中では初めてだった。

(……刺激……)

聖璃は自分の部屋に戻った。五年前とは違い、一人部屋の本棚は本とスケッチブックで埋まっている。紫魔が唯一出来ないのが絵だったから、勉強の合間合間に絵を描いていてスケッチブックが積み上がっていった。
紫魔の部屋は何度も見たことがある。必要最低限のものしか置いていなくて、与えられたものを与えられた量だけいつもこなしていた。多すぎることも少なすぎることもなかった。テストは95点以下を見たことがないし、サッカーもバスケもラグビーも興味が無いのに、授業だといつの間にか出来るようになっている。

(紫魔はあんなに周りから褒められているのに、嬉しそうな顔を見たことがない。悲しそうな顔も、怒った顔も、泣いてるところも笑ったところも……何も……)

聖璃は窓辺に立って、窓の淵をなぞった。夕日の色に染まったカーテンが揺れている。
紫魔は学校でもいつも外を眺めているか、本を読んでいた。誘われると参加するけれど、誘われないといつまでもそうしていた。小学校も中学校も変わらずに。

(刺激、か)

興味があるけれど、出来なくて頑張ろうとすること。それか、何故か自然と惹き付けられて、胸を焦がされるものか。どちらにせよ、紫魔にはおそらく縁のないものだ。自分にはこんなにも縁があるものだというのに。

(だから、訊いてきたんだろうな)

おもむろに、右の手のひらを見つめる。ふうわりと、薄い水の膜が張られた大きな泡が浮かび上がってきた。
水分を与える力。一年前に突如目覚めた、聖璃の力だった。手のひらの上に漂う大気に薄く水分を与えて、形を整えて泡に出来るくらいには、少しずつコントロール出来るようになった。指でつついて泡を消すと、水が弾ける。

(これくらいじゃあ、紫魔の興味なんて少しもそそらないだろうなあ……)

出来ることが「与えるだけ」と気づいた時は落胆した。
紋章のことは本を読んだり話を聞いたりして知っていたし、自分に紋章が現れた日は飛ぶように喜んで両親に報告した。青く色づけられたそれに期待して、出来ることはそれだけだったのだ。水を与えて魔物を倒すなんて想像し難い。剣で斬りかかった方が手っ取り早いだろう。

「紋章のこと言ってもしょうがないか。紫魔の刺激、見つけられるかな……」

溜息混じりに空を見上げる。落ちていく夕日は、紫魔と出会った時の炎の町の色に少しだけ似ていた。