04

息せき切って走る僕に、誰も救いの手など差し伸べてくれない。いや、むしろそんな慈悲の手を振り払ってでも、今の僕はこの道を走らないといけなかった。
この世に悪魔が産まれた時、人々はなぜ放っておいたのか、子供の時から疑問だった。災いをもたらすその存在を、その芽を積んでおかなかったことに。それだけでこの後、この世に降り注ぐはずの厄災が防げたというのに。

――心臓の高鳴りが止まない。全ての感覚が僕をいざなっている。六年前のあの日、あの時のような、裸足だというのに夢中で駆け抜けた、石ころや木の枝が転がる静かな裏道へ。

悪魔が産まれるかもしれない。

そんな予感ばかり脳裏を過ぎっていた。


――――


一時間前、天道家の主の元には、緊急で二人の息子が集められていた。15歳になった一人息子の聖璃と、養子に迎えられた紫魔である。紫魔は家に来た当初と変わり、随分髪が伸びて、短かった黒髪が肩下まで降りるようになっていた。

「ここのすぐ近くに魔物が!?」
「そうだ。今日私は出掛ける予定だったが、その知らせを受けて戻ってきた。……六年前のようなことは防がなくてはならないからな」

いつにも増して深刻な様子の父に、聖璃は息を潜めた。六年前と聞き紫魔と視線を合わせる。炎と魔物に町を焼かれ、紫魔と出会ったあの日。聖璃は父に向き直ると拳を握り締めた。

「お父様、僕にも魔物を倒すお手伝いをさせてください」
「何?」
「今の僕は、もうあの時のような子どもではありません。この屋敷を守るために、何か出来ることがあると思うのです……!」

決死の覚悟を決めた聖璃の眼差しを、父は呆けたような表情で見返した。首を振って、ため息の音が響く。

「大人しくしていなさい、聖璃」
「しかし」
「お前の気持ちは嬉しいが、お前はまだ子どもだ。あと五年待ちなさい……いくら紋章があっても、討伐団養成学院にも入っていない人間が魔物と接触するのは無茶だ」

心臓が勢いよく跳ねた。紋章があるならと意気込んでいた心を読まれたような言葉に、思わず俯いてしまう。握り締めた白い拳に痛いほど爪がくい込んだ。

「はい……申し訳ありません……」

ようやく出来た返事は、萎んだ花のように弱りきっていた。熱くなる目頭を堪える聖璃を、紫魔は淡々と横目に映していた。シゲキの三文字を頭に巡らせながら。

「謝ることはない。五年後ならばその申請を有り難く受け入れていたところだからな……さあ、二人とも部屋に戻って、しっかり鍵を閉めるんだよ」


もう日はとっぷり沈んだ夜だったが、聖璃はなかなか寝付けなかった。ベッドに寝る気にもなれず、ピカピカに磨かれた勉強机に向かってため息をついている。

(僕に出来ることは何もないのだろうか……)

結局、やることなすことは全て紫魔の下であるし、紋章を手に入れても倒すことに使えない、中途半端だ。歳のことを言われてしまったらどうすることも出来ない。父と討伐団の人々が今頃屋敷の周りを調査していると思うだけで、ひどくもどかしくなった。
深い思考の海に飲まれそうになった聖璃の脳は、不意にノックされた扉の音で覚醒した。

「聖璃」
「……紫魔?」

機械のような生気のない呼び声に、聖璃は慌てて扉を開けた。先ほどの父からの言いつけなど何もなかったかのように、紫魔は平然と立っていた。

「紫魔、どうしたんだこんな時間に。お前が僕の部屋に来るなんて……」
「行かねえのか。シゲキに」
「……刺激?」

先刻の父とのやりとりと、一年前の紫魔の言葉が、バッと頭に駆け巡った。咄嗟に首を横に振る。

「だ、駄目だ。……あの時僕はああ言ったけれど、魔物と戦うのは……無茶なんだ……」

言い分を重ねていくうちに自分の勢い任せを痛感して、語尾は僅かな物音に消える程小さくなっていた。頭を垂らす聖璃を、紫魔は何も言わずに見下ろした。

「天道家を守りたいって気持ちはある……それは嘘なんかじゃない。だけど扉を開けようとする度に、お父様の言葉が僕をここにいろと押さえるんだ!」
「…………だったら……」

紫魔は聖璃の横をすり抜けて、部屋の中へ入ってきた。真っ直ぐに窓辺へと向かい、六年前では背が届かなかった、施錠されている窓の鍵を開ける。
窓を開け放つと、春先の温い風が紫魔の髪を揺らした。聖璃の頬にも届いている。恐ろしく自由な、外の暗闇から溢れる風が。それは二人を手招きしているようでもあったし、後ろへと押し返そうとしているようでもあった。
それからの紫魔は、もう、更に六年経った今でも、聖璃はすぐさま色鮮やかに思い出すことが出来る。

「……扉から出なければ良い」

窓枠に足を引っ掛けて、闇へと吸い込まれるように、外へと飛び出す。聖璃は何故か背筋におぞましい寒気が走った。紫魔は外の茂みに佇んで、聖璃の方へと振り返る。闇に紫魔の赤っぽい橙色の瞳が強く光っていた。ビー玉のように、きらりとして無機質な瞳だった。褐色の肌は黒に溶けるように隠れている。
まるで、そこにいるのが、当たり前であるかのように。聖璃の本能が警告していた。彼をこの先へ行かせてはいけない。

「聖璃。……お前のシゲキは、代わりに俺が体感して来るぜ。興味が出た」
「きょう、み……!?」

紫魔の一言に聖璃の視界がぐらりと歪む。天地が逆さになって、白と黒に交互に染まる。
口から飛び出したことなどなかった紫魔の「興味」。よりにもよって、今になって。冷たい氷が腹の底から産まれるような心地だった。
丸腰であるはずの紫魔が、父の言いつけを守らず、六年前の窓越しにしか見えなかった未知なる獣に、立ち向かおうとしている。

(――サタンは……大いなる神の方針に背いて地獄へと落ちた……神の使いルシフェルから地獄の王へと……)

窓の外は、まるで雲の隙間から除く地獄への入口のようだった。どこに魔物が潜んでいるか分からない暗黒への扉は、既に数十秒紫魔を飲み込んでいる。

「紫魔っ!駄目だ!お前は何でも出来るけど、けれど」
「……討伐団より先に見つけたら俺の勝ちだ。心当たりがある」
「え……紫魔!?」

聖璃が窓に手をかけたところで、既に紫魔は真っ直ぐに――裏道へと走り出していた。
六年前のように、どこかから何かが聖璃へと囁いている。目の前が虹色に眩み、足は勝手に動き出している。

「申し訳ありません、お父様っ……!しかし僕はこの嫌な予感を見過ごしてはおけないのです……!」

聖璃は後ろを振り返ることなく、窓へと足をかけて、飛び出した。




(この感覚……怖い……僕は今、たまらなく怖いんだ……!紫魔と魔物が会うことを、怖がっている……)

それでも、足が震える余裕などなかった。紫魔は聖璃よりも遥かに足が速い。毎年体力測定で嫌というほど思い知らされていたことだ。あの日の裏道が走っている景色に重なっている。あの日母親と逃げた裏道は、細くてひっそりとしたところにあるので、討伐団の人の手はまだ回っていないようだった。

「紫魔、どこだ……!」

そこらにそびえ立つ木々は、闇に染まって聖璃の視界を遮っている。聖璃を上からのぞき込んでくるように頭上は枝葉が広がっている。
天道家のために魔物を捜索して戦うということを、聖璃の代わりに紫魔が引き受けた、ただそれだけのことなのに、こうも動悸が止まないのは何故なのか。
彼と出会ったあの日が聖璃の心に広がっている。燃え盛る町を背に、己をマシラだと言い放った紫魔を、何故か思い起こさせるのだ。
マシラ。猿――ただの、名前のない、感情(こころ)を持つこともない……。


――グオオオオオ!!
耳をつんざく獣の雄叫びが、聖璃の横から響いた。聖璃は肩を跳ねさせて、身がすくむ。音の波に脳が揺らされて、頭痛がする。がさがさと側の茂みが揺れる音と共に、聖璃に細長い影がかかった。

「……え……」

気がついた時には、目の前には鋭い牙と、爪とが、暗闇に輝き閃いていた。

「――!!」

近くから聞こえた誰かの叫び声と同時に、聖璃の身体は「何か」に突き飛ばされた。右の半身に鈍い衝撃が走り、細い小道に投げ出される。石で肩が擦ったがそれは問題ではない。
服を切り裂いた、布がちぎれる音がした。聖璃の耳と周りの茂みに染み込んで消える。

真っ黒い闇に、赤が混ざった夕日の色が光った。褐色の肌に走る魔物の爪痕である三本の大きな線から、赤い血が吹出して黒い寝間着を染めている。

「しっ……しま……」
「…………」

紫魔は無表情のまま、自分の口から出た血と腹の血を乱暴に拭った。
狼のような魔物は、目を光らせると紫魔へ標的を変えて、毛からバチリと火花を散らした。そのまま紫魔へと突進して爪を振りかぶる。
紫魔は片手で腹を押さえたまま、片手を突き出して魔物の頭を鷲掴んだ。赤茶の腕に爪の線が走る。身体は後ろへ押されながらもグッと押しつぶすように握ると、魔物は急に悲痛な叫び声を上げ始めた。毛並みから艶がなくなり、腕や足は段々と砂漠にほうられたように干からびていく。身体は半分ほどの薄さに縮んだ。
そのうち動かなくなった、萎びたそれを、紫魔は茂みに放った。同時に足が崩れ落ち、その場に座り込む。聖璃はそれを合図に我に返ると、紫魔へと駆け寄った。

「紫魔っ……腹から……ち……血が……!」
「……まあ。軽く……えぐられた」
「とにかく!血を、止めないと……」

聖璃は寝間着の上を脱ぐと、紫魔の傷口に当てた。真っ白だった布がじわじわと赤黒く染まっていく。鉄の匂いが鼻についた。紫魔はそれを一瞥した後、焦点が合わずぐらぐらと揺らいでいる翡翠色の瞳に、視線を移した。

「なにを、そんなに焦ってるんだよ」
「焦るさ!!こんなに血が、出てて……っ死ぬ、かも、しれない……」

聖璃は自分の言葉に、自分の血の気が引いていた。上品な白い肌は、今は恐ろしさで青白くなっている。ふと、紫魔が溜息をつくと、紫魔の耳に唸り声が入った。目を見開く。

「来たか」
「……なに、が……っ!?」

紫魔の静かな呟きの意味は、聖璃にもすぐに理解出来た。獣の唸り声。それも、ひとつではなく、三つ折り重なって聞こえる。聖璃の心臓が鈍く音を立てた。

「魔物……か……」
「俺の血の匂いに、つられて来やがったみたいだな」
「……っ」

聖璃はがたがたと震える己の膝を殴った。紫魔の傷を見ると、震えは落ち着いて正しい呼吸が出来るようになる。半身シャツの状態で、聖璃は立ち上がると周りを見渡した。

(魔物が三体も、僕と紫魔を囲んでいるようだ……。怖い……とても恐ろしい……一体で死にそうになった僕に、戦えるのか?泡しか出せないというのに……)

違う、と、身体の底から己が声を張り上げた。

(戦えるかではない……僕は強く戦わなくてはならない!そうしなければ僕も紫魔も喰われてしまうのだから……!)

聖璃が意を決して強く前を見つめた時、傍らから、ずるりと土を引きずるような物音が聞こえた。

「……退いてろ」

浅く息を繰り返し、聖璃の腕に赤い手を伸ばすと、後ろへと押しやる。応急処置の寝間着は茂みへ放り出されていた。聖璃は息を詰まらせる。

「しっ、紫魔!?お前、まだ安静にしていないと」
「代わりに戦えとも、守れとも、一言も言っちゃいないぜ……俺は」
「紫魔!お前は……!」

口に溜まった血を乱雑に床へ吐き捨てる。聖璃は紫魔の肩を咄嗟に掴む。強気だった聖璃の心は、そのまま引き寄せた紫魔の横顔に、すべてを奪われた。

「こんな面白えシゲキ、誰にも譲らせる訳にはいかねえんだよ……!」

その時、紫魔の無機質な瞳には、初めて生命の息吹が宿っていた。己の命が危機に晒されて初めて、紫魔の身体中に熱く滾った血潮が流れている。恐ろしい闇夜を映して明るく輝く瞳は、快楽と愉悦を手に入れた「人間」に他ならなかった。
身体中を血に染め上げながら。その傷だらけの歪な両手を広げて。

「来いよ……お前ら全員、この俺が相手をしてやる……」

ゆっくりと夕日色の瞳が、にい、と笑みに細まる。聖璃は言葉を失って、足が一歩下がりそうになった。しかし、紫魔の表情から爪痕の残る身体へと目を下げた時、底から湧き出る力に押され、聖璃は足を前へと進めた。

「違う。……僕と、二人だ」
「……ああ?」

緩く、紫魔の首が聖璃へと振り返った時、魔物の方が動き出した。三匹が一斉に駆け出し、二人へと飛びかかる。紫魔は鼻を鳴らして嘲った。

「懲りず飽きずのワンパターン戦法……。お前ら、頭悪いな」

紫魔は手のひらを向かってくる魔物に向かって左右へかざすと、瞼を閉じる。

「目に入れる意味もない。散れ」

ズパン!と空気が断絶される衝撃が辺りに響いた。魔物の首と胴体が切断されて、地面へと力なく落ちる。残り一体は聖璃へと飛びかかっていた。

「これでも……喰らえっ!」

両手から多量の水を噴かせ、魔物の両目へと浴びせる。目潰しをされた魔物は勢いをなくし、爪の一撃も聖璃の横を空ぶった。着地した隙を狙って、聖璃は近くに転がっていた鋭利な石の欠片を拾い上げて振りかぶる。

「うおあぁぁああああ!!!! 」

少しは皮膚を貫けるかもしれないと勢いよく下ろした石は、その一瞬の間に、ギラリと光る刺を覗かせた。
突き刺した瞬間、ギャア、と魔物が一際大きく吠えて、素早く後ずさる。ブルブルと震えたと思ったら、逃げるように道を引き返していった。思いもよらない反応に、聖璃は目を丸くして瞬きを繰り返す。

「……い、今のは……?」
「……お前、一体何で攻撃したんだ?」

紫魔は悠々と血止め代わりの寝間着を拾い上げ、傷に押し当てていた。聖璃は手の中にあった石の欠片を広げる。
そこにあったのは、深緑色をした猛毒植物の刺だった。しかも、まるで拡大されたかのように、槍のような形になって刺のみが聖璃の手に収まっている。

「……これは……僕が……?」
「だろうな。……退いてろって言ったってのに」
「出来る訳ないだろう。お前の……刺激を知ってしまったら、尚更……」

血にまみれた楽しげな横顔を思い出すだけで、聖璃は震え上がりそうになった。遊びを知った子どものようで、あまりにも残酷な光景だった。思えば出会った時も、紫魔は傷で血に汚れていた。おそらく初めから、彼は刺激を求めて生きていた。

「ああ。……ようやく見つけたんだ、俺のシゲキをな」

口元を歪める紫魔は、ほんの数時間前までは想像出来ない表情だったはずなのに、何故かしっくりと来た。
生命を削って戦うこと――それが紫魔の「シゲキ」だったのだと理解した時、聖璃は不思議と腑に落ちていた。生命を宿したマシラは、既にただの猿ではなくなっていた。

「紫魔」

自然とかけられた声は、すっかり落ち着いていた。聖璃は深く息を吸う。

「随分昔に見せた聖書の、ルシフェル……サタンを覚えているか?」
「……地獄の王か」

聖璃は頷いた。紫魔は訝しげに聖璃を見ている。

「うん。彼は神に背いて地獄の王になったけれど、元々は人間のために戦ってくれていたんだ……さっき僕を庇ってくれた、お前のように」
「なら、さしずめ俺は現代の地獄の王か?」

くく、と喉を鳴らして紫魔は笑ったが、聖璃は首を横に振った。

「サタンには誰もいなかった……その罪を見守ってくれる人も、誰も……。地獄の頂点に君臨して、従えた悪霊はいたけれど、理解者は誰もいなかったんだ。人間でさえも」
「ふーん……?」
「紫魔、お前はまだ、サタンではない明けの明星……ルシファーだと僕は信じていたい。僕が一番、恐れているのは……今のお前ではない……人間をシゲキの手にかけて、お前の周りに誰もいなくなってしまうことなんだ……」

一度感じた快楽を忘れさせることは、恐らく出来はしない。
聖璃にはそれが分かっていたし、それを与えてしまったのは自分だということも、よく分かっていた。聖璃は静かな炎を瞳の中に燃やして、紫魔を見つめた。光が灯った夕日の色は、出会いの時の瞳とは随分様子が変わって見えた。

「僕は強くなる。……いや、強く、誇り高い人間にならなくてはならない。それは天道家のためじゃない……お前と並び、超し、止めるためだ。存在し得なかった天使となり、ルシフェルがサタンとなる時、天界へ引き上げられるように……。お前が道を逸れる時、必ず僕が止めるんだ」
「……好きにしな。俺も好きにさせてもらうぜ」

その日密やかに、誓いは天へと結ばれた。
その後すぐに家へと戻り、討伐団と父に報告した後に、一ヶ月の家からの出入り禁止を食らった。親にはすべてを話した。紫魔と聖璃のこれからの希望と進路について。
両親はしばらく考えた後、何とか頷いてくれた。中学卒業後、討伐団養成学院へと進む、その道を……。