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「生吉、急に走り出したと思ったらどこに行っていたんだい?」
「だってェセンセー、俺バッサリ見つけたんだぜェ~~写真のヤツ~。褒めてェ~」
「本当?うんうん、それはそれはよく出来ました」

大きな浅黒い手のひらが、フカフカの緑髪に乗せられて撫でる。極上グルメでも味わっているような表情には、先程まで震え上がっていた姿は見る影もない。しかし紫魔と聖璃が追いついた時、生吉と呼ばれた侵入者はすごすごと、ワインレッドの赤いスーツの裏に隠れた。

「や、や、天道紫魔くんだよね?探したよ~ここホンット広いよね。もう見た目通りこんな歳だからさ、記憶も早いうちに薄れてきちゃってさ~!あっはっはっは!!」
(……俺よりデカイ)

紫魔はパシパシと手を叩きながら近寄ってきた、赤いスーツの老人を見上げた。顔や手は確かにシワだらけだが、広い肩やしっかりとした腕は現役のラグビー選手にも引けを取らない。そして何より、あまり周りに自分より大きい人間を見かけない紫魔よりも身長が高く、軽薄な態度とは裏腹に隙は見当たらない。紫魔はきゅっと目を細めて気を引き締めた。老人はかっこよく顎に手を添えてポーズを取る。

「ん?なになに?ボクの顔に何か付いてる?」
「…………」
「あの……失礼ですが、貴方方は何故紫魔のことを知っているのですか?」

聖璃が警戒する紫魔の代わりに尋ねる。老人はポーズを解いて、にこにこと人の良さそうに微笑んだ。

「紫魔くんはボクの旧友の教え子なんだよ。あーっごめんごめん、申し遅れたね?ボクは常磐巌徳。そして今ボクの後ろにいるのはボクの教え子で、狂舞洲生吉っていうんだ。よろしくね」

巌徳は紫魔に向かって、静かに手を差し出す。払い除ける訳にもいかず、紫魔はその手を握った。大きく骨張った、幾つもの戦いを乗り越えてきたような手。確実に一般の老人ではない。感触を確かめると、紫魔は手を離した。そうして僅かに息を吸う。

「……教え子とは、どういうことですか」

聖璃は自分から口を開いた紫魔に驚き、緊迫した横顔を見る。紫魔は半ば睨むように、巌徳の目を見つめた。胸の内に冷たい氷が通るようだった。旧友。どこか、嫌な予感がする。

「ああ、そうだ、教えられた人はたくさんいるものね。あいつの名前を言わないと……。ボクの旧友の名は、本郷智昭」
「……な…………」
「本郷……さん?」

聖璃の口から紡がれてしまった「本郷」の名に、紫魔は全身から嫌な汗が出る感覚を味わった。聞きたくなかった名前などよりも、今は横にいる双子に何も知らせない方を優先しなければならない。――彼に「本郷」を知らせてはいけない。心臓がぎこちなく動いている。
巌徳が緩く首を傾ける。

「あれ?もしかして知らなかった?智昭がキミ――」
「やめろッ!!」

遮るような紫魔の大声に、空気が張り詰めた。巌徳は目を丸くしており、聖璃も普段では考えられない声を聞いて、心配げに眉を下げて紫魔を見守る。

「……紫魔……?」
「……すみません。場所を、変えてください。…………お願いします」

頭が軽く下げられ、漆黒の髪が垂れ下がる。巌徳はその様子を見て少し考える素振りを見せると、空気を吹き飛ばすようにっこりと微笑んだ。

「いや、いやいや、そうだよね、うん!こんな晴れやかなランチタイムに立ち話もなんだし、話に付き合ってくれる代わりに働いてるボクがランチのひとつやふたつ奢ろう。あっでも、今ちょっと持ち合わせがないんだったっけな~……ちょっと待ってね」

巌徳はスーツから長財布を出すと、くるっと後ろへ身体の向きを変えて財布を広げ始めた。その中身を生吉が覗こうとしている。
その間に、紫魔は頭を上げると聖璃へと向き直った。

「聖璃。お前は先に帰れ」
「えっ……大丈夫、なのか?さっきからお前、顔色が悪いぞ……」
「……これは、俺の問題だ。お前じゃねえ。お前には何も関係がないことなのさ……これっぽっちもな」

ふ、と紫魔は嘲るように微笑んだ。突き放すような言葉に、聖璃は食い下がろうとする心を押さえる。紫魔の言うことは最もだった。現に聖璃は、今の会話に何一つついて行けていない。足でまといが関の山だ。

(もう、余計なことをして紫魔を傷付ける訳にはいかない)

肉体的にも、精神的にも。聖璃は目を瞑って息を吐くと、生吉とポイントカードの期限チェックをしている巌徳から踵を返し、そっと歩き出した。数歩歩いてから、足を止める。

「紫魔。……僕は、お前の帰ってくる場所で在りたいと思うよ」
「ああ……悪くねえ」

聖璃は振り返りたい思いを我慢して、足を進めた。
その足音が聞こえなくなったところで、紫魔はとりあえず胸を降ろす。かなり強引なやり方だったが、どうにか聖璃に聞かれる心配はなくなった。紫魔は、とうとう廊下にしゃがみこんでカードを並べ始めた赤い背中に近付く。るんるんだった生吉がさっと物陰に隠れた。

「先程は失礼しました。……もう大丈夫です」
「あ、もういい?いやはや~、いつの間にか一年切れてたカードとかあってね。こまめにチェックすれば良い話なんだろうけどそれも面倒くさくて」

巌徳はカードを財布の中に収めると、立ち上がって紫魔へと振り返る。にこにこと穏和な笑みは相変わらずだった。

「ん、うん、さて、先にランチタイムにする?食堂はまだ混んでそうだけど」
「話が先で構いません」
「でも立ち話も何だし、中庭にでも行こうか?紫魔くん中庭に行ける?」
「はい。……ご案内します。『祖父』のご友人のようですし」

先に歩き始めた紫魔に目を瞬かせて、巌徳とその後ろに身を潜める生吉が後からついてくる。んー?と巌徳は明後日の方を向いた。

「おかしいな、さっきの反応を見ると、キミは智昭が祖父であることを知らなそうだったのに」
「先程知って理解しましたから。……俺に戦い方や生きる基本を教えたのは、祖父だったのだと。彼は俺の事情を知りすぎていましたので、違和感は前からありました」
「うんうん、流石智昭の教え子兼孫ってところかな。頭の回転が早いねぇ、流石だよ。ところでさっきの彼は天道聖璃くんかな?」

紫魔は少しの沈黙の後に、曖昧な声色で、はい、と頷いた。

「ああやっぱり。大抵は行動を共にしているって聞いたからね。彼の怪我はもう大丈夫なのかい?」
「……先日退院しました。今のところ支障はありません」
「んーんー、そうなんだね。良かったよー、智昭もホント昔から不良なんだから……っと、靴靴」

来客用のスリッパから履き替えて、外へ出る。中庭で既に昼食後のひと時を過ごしている人も多かった。流石に長身が並んでいると目立つのか、周りからの視線を感じる。その辺の段差に腰掛けながら、ううん、と巌徳が唸った。

「込み入った話はもう少し経ってからにしよう。紫魔くん、これから用事はあるかい?」
「いえ、何も。……巌徳さん、ひとつ訊いても良いでしょうか」
「うん?もちろん」

紫魔は巌徳の横に腰掛けると、緩やかに細まる翠の瞳を見据えた。聖璃と似ているようで、かなり違う色をしている。

「どこまで知っているんですか。俺と、本郷猛と……聖璃のことを」

巌徳は真剣な眼差しを受け、肩を竦めた。困ったように微笑む。

「ボクね、昔から期待には弱いんだよ。ボクが知っているのは本郷智昭のことと、彼から聞いたことだけ。自分でもちょっと調べたけど……あ!そんなキミの好きな子までは知らないよ?」
「……そうですか。祖父とはよくお会いになっていたんですか」

巌徳はどこか上の空な様子で、懐かしむように呟いた。

「彼はね……昔から神出鬼没なんだ。いつの間にかボクの前にひょいっと出てきては、いつの間にか消えているんだよ。マジックみたいにね。一週間前かな、ボクの家に急に来てさ。急に孫の教え子がいるって言って、キミに関わってきたことを話し出したんだ。それは大絶賛の嵐だったよ。あれはすぐに覚えこれはすぐに覚えってね」
「……はあ」
「情さえ覚えなければ最高、とも言っていた。どれだけ自分が猛を引き入れようとしたかってちょっと愚痴みたいにもなってたかなぁ。それで、今度会いに行ってみろよって言われて写真を渡されたから、実際に会いに来たってわけ。分かったかな?」

最後だけ、視線だけちらりと紫魔を見てきた。紫魔はすぐに頷く。巌徳はうんうんと満足そうに喜んでいた。

「それからはちょっとキミのことを調べさせてもらったってところかな。パソコン得意な子がいてさぁ、調べて教えて貰ったって言った方が良いんだけど」

紫魔は聞きながら、徐々に警戒は解いていった。彼はどうやら表に出ている情報しか知らないようで、本郷猛の罪など知るよしもなさそうだった。次の講義のために人がパラパラと去っていく中、二人は中庭の隅に腰掛けている。

「ボクはキミに会ってどうこうしようってことじゃない。逆にキミに質問があれば何でも答えるよ」
「巌徳さんから見て、祖父はどんな人間でしたか」

紫魔が知りたいことは、今、そのひとつのみだった。路地裏に座り込んで、みかん箱を引っ張り出し、新しいノートとゴミの匂いしかしなかった勉強の日々しか、紫魔は知らない。それも、その人間が自分の実の祖父だと知らされずに。紫魔は急に、十五年程前の灰色の時を懐かしく思えた。

「頭の良い人間だった。智昭とは高校の時に出会ったんだけど、成績はとても良かったよ。ボクも悪い方ではなかったけれど、結局彼は超えられなかった。……うん、青春らしいこともした。大学で分かれてしまったけれど、良い友人だよ。連絡も取り合っていた」
「しかし、先程神出鬼没だと」
「大人になってからね。……今から二十年前かな、ボクと智昭はここに入ったんだよ。ボクは言うならばOBで、キミのセンパイなんだ」

巌徳の言葉に、紫魔は目を見開いて驚いたが、同時に納得もした。討伐団に所属し続けていれば、肉体に衰えがないのも肯けた。巌徳はにこにこと笑っている。

「その時のボクは個人プレーは大得意なんだけど、チームプレーはダメダメでね。一回チームを解散して、翌年組んだチームに、智昭がいたんだ。そう、ちょうどキミと聖璃くんが偶然組まされたのと、感覚的には変わりないかもしれないね……」

巌徳の声色はあまり明るくない。笑みばかり浮かべていた彼は、おもむろに顔を俯かせた。初めて見る巌徳の真剣な顔に、紫魔の胸の内も張り詰める。

「ボクの目から見て、智昭には欠点があった。……頭の良い人間至上主義と言うのかな。ボクよりもチームプレーが合わない人間だったんだ。そして……彼はチームメンバーのひとりに人体実験を施して、頭を良くしようとしたんだよ。もちろんその場で失格の退学。その日から彼を見ることはめっきり減った……」
「人体実験……ですか」
「キミも彼の能力は知っているよね?炎と風……智昭にかかれば、指先がメスになる。詳しいことは聞けなかったんだけど、どちらにせよキミのような学生には聞かせられないような内容だろうね」

紫魔は胸に手を当てた。天道紫魔が背負う罪は、すべて本郷智昭が仕組んだことだ。二十年近くも手足に穴を開けられ、操り糸を通されていたという意味では、紫魔もその「人体実験」の被害者と呼べたかもしれない。
人間の人生を左右し、人間を超越するサタンを生み出す人体実験。――結局、それは失敗に終わり、一人の天道紫魔が生まれる結末を迎えたのだが。

「ねえ紫魔くん、ひとつ訊いても良いかい?」
「どうぞ」

紫魔は手を下ろし、言葉を促す。巌徳の表情は、風が凪いだようにとても静かだった。中庭に浮かぶ硬い沈黙が、まったく苦に思えないほどに。

「智昭のことを、恨んでいるかな。あー、先に言うよ、ボクは許せと言いたい訳じゃない。ただ聞きたかったんだ……彼の教え子の気持ちをね」
「……恨み……ですか」

気持ちの存在と言葉の意味は、紫魔の知識にはあった。しかし自分の中に探そうとしても、霧がかっていて掴み取れない。存在するかの確信すらなかった。紫魔は腕を組み、視線を他所に向ける。

「俺は……すみません、恨みを向けているかどうか、自分で測りきれないところがあります。しかし……」

紫魔は巌徳へ顔を向けると、膝に乗せ直した手をぐっと握りしめた。

「聖璃とのことを許せないと思っているのは確かです。何も知らないあいつを勝手に巻き込み、俺との取り引きのために重症を負わせた……!それに比べたら、俺自身に起こったことについて大して思うことはありません」
「ふむ、ふむふむ……それは恨みと言うより怒りが正しいね。良かった、キミはたとえ智昭と同じ主義だとしても、彼と同じ道は辿ることはなさそうだ」
「失礼を承知で言わせてもらいますが、俺は祖父と同じ道を行く気は最初からありません」

思わず声が低くなり、きっぱりと言い切ると、巌徳は途端に破顔した。くしゃくしゃの笑みに歪んで、ぱしぱしと手を叩く。

「あっはっはっは!これは智昭も嫌われたねえ!ボクも彼のやり方はあまり好きじゃないけど教え子にまで言われるか!」
「確かに、祖父は俺に様々なことを伝授してくれました。あの人がいなければ今の俺はありません。しかし、すべてをあの人に委ねていても、今の俺はありません……決して」
「キミはキミの道を歩いているって訳だ。……面白いね、どれ……紫魔くん、移動しよう。ランチタイムはもうちょっとだけ待ってね。少し試してみたいことがあるんだよ」

巌徳は不敵に微笑むと、その場から立ち上がった。紫魔も後をついていく。学院は既に講義が始まっていた。グラウンドから体力作りの走り込みをする学院生が見える。
学院の門を潜ったところで、紫魔は口を開いた。

「試したいこととは?」
「キミの強さは智昭から聞いたり調べたりしてよく知っているつもりなんだ。それを踏まえて、今日はキミの一番の強敵となり得る人間と戦ってもらおうと思ってね」

紫魔は、背筋にぞくりと興奮を滑らせた。討伐団員との対人戦。願ってもいないことだった。しかも一筋縄では通らなさそうな経験と知識を備えた巌徳となれば、手応えは計り知れない。

「どう?悪い話じゃないと思うけど」
「むしろこちらから申し出たい程、有難いお話です」
「ホント?よしよーし、でも肝心の本人があれだもんなあ……」

巌徳は歩いている並木道にある茂みをちらりと見やる。僅かにかさかさと揺れて、緑髪のオールバックと、数センチの仮面が見えた。

「…………は?」

紫魔はつい、素で気の抜けた声が飛び出てしまった。