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しばらく歩いて辿り着いたのは、紫魔もよく見覚えがある公園だった。人通りも少なく遊具も寂れているため、子どもが遊ぶこともほとんどない。なので、紫魔は講義が終わってから、木の上でゆっくりと昼寝をさせてもらっていることも多かった。
しかし今日は勝手が違う。討伐団にかれこれ十年所属している討伐団員が相手なのだ。……で、あるはずなのだが、緑色の影はすっかり怯えて、巌徳と紫魔が腰掛けるベンチの下に隠れている。

「あっはっはっは!参った参った、こんなことは初めてだよ!」

巌徳は転げ回りそうな勢いでけたけたと笑っている。しわくちゃの目尻に浮かぶ涙を拭い、横に渋い顔で座る紫魔へ陽気に笑いかける。

「ああ、あー、勘違いしないでおくれよ?紫魔くん。生吉は外国のゴロツキだってジャパニーズヤクザだってテロ組織だって怖くない、日本一の怖いもの知らずなんだよ」
「では何故その怖いもの知らずが俺に怖がっているんですか」
「うーん、それが分かれば対処も出来るんだけどなあ。ボクが来る前、生吉が何か言っていたりした?紫魔くんが原因を推測してくれても構わないよ」
「…………来る前、ですか」

生吉は紫魔の何を怖がっているのか。確かに紫魔は聖璃よりは愛想が悪いし、人当たりも良いとは言えないが、それでも日本一の怖いもの知らずに怖がられるようなことはちっともなかった。紫魔は俯いて、懸命に記憶を探る。自分が襲われた時からの、生吉の一挙一動を。
後ろからナイフを受け止めた時、出会った最初は、彼は愉快そうに笑っていた。それを間一髪で止め、その仮面と顔を付き合わせてから――表情はみるみる変わり始めた。
紫魔は何とも言えない表情で顔を上げた。言うならば、呆れと疑問と戸惑いが同じ割合で混ざったような顔だった。

「……ゴロツキもヤクザも怖がらないのに何を言うのかと思われるかもしれませんが……」
「うんうん、良いよ大丈夫大丈夫、生吉にはよくある話だから」
「…………顔……かもしれません」

紫魔は到達した答えを、とことん内心で疑っていた。目と頬に傷こそあるものの、そんな人間は世の中にごまんといる。だからといって他に思い当たることもない。巌徳は首を捻った後、懐をごそごそ漁ると、顔の半分を隠す仮面を取り出した。生吉がしているものとまったく同じ、白くシンプルで、目尻に逆三角の模様が刻まれてたものだった。

「紫魔くん、これを付けてもらえないかな?戦闘で壊れた時用のスペアなんだ。生吉は仮面を僕や仲間以外、魔物も例外なく誰にも触らせてないから、使う機会はないんだけど。だから汗臭いとかの心配はいらないよ!」
「……はあ。分かりました」

紫魔は仮面を受け取る。案外感触は固く、白い粘土で作ってあるようだった。被ってみると鼻の先端近くまでがすっぽりと覆われ、眼鏡も掛けたことのない紫魔としては視界に違和感がある。ハーフマスクなため、顔の上半分しか隠れないのがまだ救いだった。

「これで大丈」
「センセェ~~~早くやろ~ぜェ~~」

ベンチの下からにゅっと飛び出てきた影に、紫魔は肩を揺らしそうになった。滑り出てきた生吉は飛び出しナイフを片手にちらつかせ、舌を出して笑っている。三秒前の震えっぷりが嘘のように消え去っており、紫魔はげんなりとして溜息を吐いた。巌徳は相も変わらず微笑んでいる。

「まあまあ紫魔くん。ボクがキミと生吉を戦わせようと思ったのには理由があるんだ。分かるかな?」
「強い人間と戦わせ、俺の力を測るため……が一般論だと思われますが、おそらくそれでは満点ではない、ということは分かります。祖父と旧友であったあなたなら、もっと深い理由があるはず……彼を選んだことも含め……」
「うんうん、んーんー、や、や、そこまで考えられるなら合格だよ!そう、わざわざボクは生吉を連れてきた。あの子は正直誰かの力を測るバロメーターとしてはかなり向いていない。いかんせん破天荒だからね。けれど紫魔くん、キミに限って言えば、その力を見るのにこれほど適した人材はいない」

巌徳は生吉へと目を向けた。二人が話していることに飽きてしまったのか、いつの間にか木の上に登り、枝に赤々となっている実をナイフで落としている。

「世の中に生きるものには、必ず何かしらの規則性がある。ボクらの遺伝子だって例外じゃない。魔物は……分かりやすいね。高い知能があるボクらも、必ず行動のパターンがある。紫魔くん、キミくらいの人間なら、それらを読み取って処理する能力くらい備わっているでしょ?」
「否定はしません。と言うより、戦いとはそういうものだと思っている面もあります」
「うんうん。でもね、世の中にはすっごく不思議なことに、規則性がない人間っていうのも存在するんだよね。それが生吉。頭が良い人間にとっての天敵っていうのはね、早い話予測が付かないことだ。直感で生きる人間の思考が分からないんだよ。智昭の孫にぶつけるには最適だろ?さあさあ、生吉と戦ってみてくれないかな。……ん。ん?どれ、どれどれ、ボクが細工をしてあげよう」

巌徳はおもむろに人差し指を出し、すっと顔の横にまで上げる。そのまま目を瞑り意識を集中させると、くるりと指の先が輪を描く。紫魔は指の先に注目していたが、先から何かを発しているようには見えなかった。紫魔の視線に気づいた巌徳がにこりと笑う。

「熱心に見てもらっているところ悪いけれど、ボクに何か起きるんじゃないよ?」
「……紋章の能力ですか?」
「そうそう。これがボクの能力。うーん、や、普通に説明しても良いけど……紫魔くんは幻覚と錯覚の違いって何だと思う?」

巌徳は紫魔に質問している間、ワイングラスでも回すように胸のあたりで手のひらをくるくると回し始めていた。紫魔は一旦意識をそれから外し、考え込む。暇になっている生吉は鉄棒の上に乗って綱渡りを楽しんでいた。

「幻覚は催眠術、錯覚はトリックアートとでも言うべきでしょうか……。幻覚はそこにない物をあるように思うこと、錯覚はそこに物はあるが脳の働きで何かしら実際の物と違うように見えること、ですね」
「ん、うんうん、その通り。ハナマルの答えだね。更に言えば、催眠術が胡散臭く感じるのは何故か?その人間の感覚器官以外に異常は起こっておらず、客観的に見ると何か変化があったように見えないから。一方トリックアートが素晴らしいものだと思うのは、見る人間の感覚器官が正常でも脳が錯覚を引き起こす対象物が、その場に必ず存在するからだ」
「感覚器官が異常でかつ存在しない物を認識したら幻覚、感覚器官が正常でかつ実際にそこにある物と違うように認識したら錯覚といったところですか」

付け足しの言葉に対してすらすらと答える紫魔に、巌徳は満面の笑みを浮かべながら頷いた。

「うん、うん、楽しくなってきた。さて次の問題。ボクの能力は、今から戦うキミと生吉の姿と音を通行人から欺き、至って日常的な公園をその目に映すことです。これは幻覚?錯覚?」
「それは幻覚ですね。今実際には存在しない『日常的な公園』を見せるんですから」
「正解!理由もパーフェクトだね。いいや、ホント、紫魔くんには好奇心がくすぐられるなあ」

巌徳は豪快に笑い声を上げてから、空いてる手の人差し指で、白髪に埋まるこめかみをトントンと叩いた。

「幻覚は感覚器官が異常を来たすことで発生するって言ったけど、人間の記憶っていうのは案外ぼんやりしていてね。そこにあるものを見せないようにするっていうのは簡単なんだよ。今この公園の周りに、無色透明のミストを張っている。感覚器官と記憶を司る海馬にアクセス出来るミストって言うのかな、ま、ま、ホント簡単に言えば感覚と記憶を操って向こうに幻覚を見てもらうのさ」
「紫の能力、ですか」
「そう!んー、理解が早くて助かるよ。ボクの能力は液体の神経毒を散らせることなんだけど、やれることをこの何十年で研究してみてね。広範囲にできるようにミスト化をしたり、対人間にも通じるように神経の範囲を限定させたり……自己研究っていうのも楽しいものだよ」
「…………液体を広範囲に散らすことで一滴の影響を弱め、威力を下げるということですね」
「その通り。良いかい?強くなるというのは、トレーニングをしたり、力を上げることだけに留まらない。時には『弱くする』ことで、新たな使い道が見えてくることもあるんだよ。相手の行動を見ることも大切だけど、時には自分の力を把握することも成長に繋がる。生吉と戦う前にヒントをあげちゃったかな?おーい生吉ー、そろそろやろうかー!」

巌徳は少しの苦笑の後、木陰に座り込んでアリの巣をほじくり出すことに夢中だった生吉へ手を振った。巌徳の言葉は最もなことだったが、紫魔にとっては初めて耳にした言葉でもある。なるほど、と紫魔は真摯に受け止め、頷いた。
今まで昂るようなシゲキを求めて戦ってきた紫魔だったが、己の能力を出来る範囲で使うことはあれど、見直すことは一度もなかったかもしれない。ふう、と紫魔は息を吐く。手を土で汚した生吉が陽気に駆けて来ていた。

「ヘッヘェ~~~~んだァ~~~。オメーなんてちっとも怖くねェもんねェ~。センセェ~今日はおもっきしやってもイィんだろォ~」
「うん。あ、待って生吉、紫魔くんの増幅器を忘れていたよ」
「俺の、ですか?俺の増幅器は今寮に」

巌徳は紫魔の言い分をよそにすっと立ち上がると、公園の入口の方へ歩き出した。いつの間にか黒塗りの高級車が、明らかに周りの景色と馴染めないまま、光沢を見せつけながら止まっている。扉が開き、真っ黒い服を着た、真っ黒い髪の女性が現れた。彼女が手に持っていたのは、見間違える訳もない、紫魔の増幅器である三叉槍だった。

(……何故置いてある場所まで分かったんだ)

紫魔が狼狽えている間に、巌徳は車を送り出してこちらへ歩いて来ていた。巌徳が差し出したものを一瞬疑いながらも受け取る。握った感触でよく出来た偽物でもないことは分かった。

「巌徳さん、これをどうやって……。今これは寮に置いてあるはずですし、部屋には今聖璃がいるはずです」
「ま、ま、そんなに焦らない焦らない。さっきの彼女はボクの仲間。キミが寮に住んでたことは知ってて、今日は座学しか受けてなさそうだったのは持ってる荷物から推測出来たから取りに行かせたの。部屋に行ったら聖璃くんが持ってきてくれたらしいよ」
「……そうですか」

最後の一言で、一気に紫魔の気が抜けた。思わず左手に三叉槍を持ち替えて頭を抱える。

(人の武器を知らない人間に渡す奴がいるかよ……)

自分の半身が人を疑わないことはよく知っていたが、ここまで来ると貴族の跡取りとして不安になってくる。疑わなさ過ぎるのも考えものだと、改めて紫魔は痛感した。