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「坊主、面白い話を聞かせてやる。周りにいる大体の奴らは、世界ってもんは、ひとつしかないと思ってやがるのさ。だがなあ、俺から言わせちゃあ、そういう奴が考えていることほど信用出来ないことはねえ。そういう奴に限って、俺をコケにするからな。俺のこと、何にも知っちゃいねえくせになあ」

ビルの隙間から入る一筋の光が、教室の電灯だった時があった。ほこりと泥とゴミの匂いにまみれ、よれたダンボールの上には、真っ白で新品なノートのページが開かれている。新品のえんぴつからは、木の良い香りがする。それもあっという間に、つんと鼻に来る、豆腐が腐ったような匂いに消されてしまうのだが。
ボロボロに破れた帽子と、布切れ同然のコートにくるまって、老人は中学の教科書を持っている。その正面でえんぴつを手にもつ少年は、拙い字で、ant、と書いた。褐色の手と木肌がむき出しになったえんぴつの色が同化している。

「世界は、ひとつ、ふたつって数えるのか?」
「さあな。なんせ数える人間がいやしねえ。大体の人間は、世界を数える暇があったら、万札を数えることにムチュウになっちまう生き物なんだからな」
「ふーん。変だな」

少年は、ぼうっとした眠そうな眼差しで、ノートに書く自分の字に、言葉を付け加えた。antithesis。老人が少年に、とても嬉しそうに、喜ばしく、うやうやしく、教えた言葉だ。よごれた風が吹きすさぶ。側で回る木の葉は、何度も足の下敷きになって、端々がやぶれていた。

「お前もそのうち分かるぜ。きっと、そのうち……外とお前が、馴染んできた時にな」

老人は、教科書に赤線を引きながら、ニヤニヤと笑っていた。少年は、何故笑っているか分からなかったので、暑さを誤魔化すために汚い服を掴んで扇いだ。
嗚呼、この小さな学校を、一体誰が、学校と呼んでくれるだろう。






聖璃はパーティが苦手だった。パーティをするくらいなら自分の部屋で本を読んでいる方が良いな、と思うと、とても気が進まなかった。自分の家に知らない人がぎゅうぎゅうに入ってくるのも、怖くて落ち着かない。生まれてから六年間は、瓜二つと称された母の手を握って離れなかった。
父と母に、この人は、あの人は、と紹介されても、一分もすれば忘れてしまう。この人もあの人も、一瞬だけ聖璃の顔を見て笑ったらすぐにどこかに行ってしまうからだと、聖璃は思っていた。

天井から降り注ぐ、明るい宝石のような光は、大人達が付けているネックレスやブレスレットや、スパンコールのドレスを一層輝かせていた。無礼講の立食パーティは、あちらこちらで挨拶や笑い話が花を咲かせている。聖璃は隅っこで、置物のように座り込みながら、それを見守っていた。シャンデリアは聖璃にだけ、暗くて淡い光を当てている。黒い影が壁に伸びて、聖璃の横に、もう一人の聖璃が顔を出していた。
聖璃は後ろを振り返る。背中合わせに座り込んだ黒い顔をじっと見つめ、そして、今この光に包まれた場にいるはずの双子がいないことに気が付いた。

「紫魔は……」

聖璃は立ち上がると、大人の波をかいくぐって、小さな影を探した。人の脚が聖璃の前に立ちふさがる。茂みのように柔らかくもなければ、柱のようにじっとしている訳でもない。黒い布を被ったり、肌色のゴムを纏ったりしている忙しない柱の密集を抜けて、聖璃は廊下へと走った。
踊り場の影。シャンデリアの光も届かない、月明かりにだけ好かれた窓辺に、紫魔はいた。ビー玉のような夕日色の瞳を、噴水が寂しく佇む外に向けて。

「紫魔」

聖璃が紫魔に声をかけると、紫魔はゆっくりと振り返った。短く整えられた黒髪と、子ども用のスーツから僅かに覗く褐色の肌を、一筋だけ差した灯が浮き彫りにする。上にまで閉められたボタンとネクタイは、少しだけのラメで鈍く光っていた。

「どうしたの、こんな所で。探したよ」

お揃いのスーツを纏う聖璃は、ほっとして紫魔の隣に並ぶ。屋敷のどこからも隠れるようにあるスペースは、沈黙と、静けさだけが二人の間に咲いている。パーティの賑わいが遠く聞こえ、夜が二人だけをここへ連れて来たような心地。
す、と紫魔の視線が窓の外に戻る。聖璃も窓から外を覗いた。すぐそばで催しをしているというだけで、その景色はパーティから取り残されたような悲しさがあった。それでも星々が空を彩っている。

「パーティ、そこの噴水のところでやればいいのに。僕、星のきらきらの方が好きだから、星のところでご飯食べた方がおいしいよ」
「……」
「ねえ紫魔、なんでパーティってこんな服でするのかなあ。僕はね、いつもの服着てやるパーティって、あっても良いと思うんだ。そっちの方が絶対良いよ」

ぬぎたい、と溜息と一緒に不満が零れる。光の粒を撒きながら、噴水がチロチロと音を立てて流れている。聖璃は手持ち無沙汰に片足をぶらつかせながら、緑の瞳に瞬く光を散らした。

「ほら、そこの星にさ、もうひとつのパーティがあって、そこは服を着ずにしてるんだよ。そこの星は、水着でしてるの。プールに入ってご飯を食べるんだよ」
「星って、人は住んでないだろ」
「住んでるよ!だって、空には神様がいるんだよ。いっぱい星を作って、いっぱい世界を作って、空から色んなパーティを見てるんだよ」

空を見上げる聖璃の目は、眩い輝きを放っていた。目をにっこりと細めて、窓へ手を伸ばす。掴めそうで掴めない星空は、聖璃の手の中にまぼろしを詰めていた。

「……大人は、ちゃんとした服を着て、楽しんでパーティをしろって言うし、世界の数も数えない」
「世界の数?」
「俺は、そう聞いた」

聖璃は紫魔へ目を向けると、腕を組んで、考え始める。うーん、と眉を寄せて、難しい顔をした。

「世界の数っていくつかなあ。百個くらいかなあ」
「ひとつじゃないんだな」
「えええ、それはないよ。数え切れないくらいあるかも。うわあ、すごい大事なことだよ紫魔、なんで大人って数えないんだろうね。人間の数は数えるのに神様の数は数えないし」
「多分、分かることしか、数えないからだろ」

紫魔の答えに、聖璃は目を丸くした。心の底から不思議そうにして、小さい唇から、ぽつりとこぼれるように呟く。

「分からないから、数えるんじゃないの?」
「ああ」
「変なの。水着でパーティするより変だね」
「変なことはやって、変じゃないことはやらないのに、大人は分かってないから、鈍いんだ」

紫魔の言葉は、電話口を通しているように、くぐもった響きをしている。聖璃は窓を開けようとガラスを押すが、鍵が閉まっていて開かなかった。透明でひやりと冷たい窓越しにしか、聖璃は夜の噴水に触れることは出来なかった。

「大事なことって、なんだろうね。僕は分からないよ」
「お前が分からないなら、他の奴は、もっと分からない。パーティなんかにはかけらも落ちてないことだから」
「教えてくれないの?」
「…………。お前はもう、知ってるから。知ってることは言わない」

真っ直ぐに見つめてくる聖璃から目をそむけて、紫魔は床に座り込んだ。目立たなくてあまり手入れされない場所のせいか、隅にはホコリが溜まっている。聖璃も横に腰掛けた。光も差さない暗闇の箱の中。聖璃は黒に溶けてしまいそうな紫魔を見続けた。空気にとてもよく似た軽さの気持ちに、言の葉がふかりと浮かされる。

「僕は、これだけは分かるよ、紫魔。今僕がお前を見ているのは、とても大事なことなんだ……。お前の服でも、靴でも、髪の毛でも、顔でもない、お前を」

このまま身体まで浮かんで、星空にキスをしてしまいたいような心地だった。それぐらい、穏やかで、気持ちの良い気分だったのだ。



★☆



マンモス校の学院生の数にもなると、人っ子一人いない場所を探すというのは、針の穴に糸を通すことよりも難しかった。歩き回ってようやく見つけられたのは、パーティ会場の隅だった。掃除が甘くなって、角にホコリが溜まっているような場所だ。窓からは月明かりが差している。
紫魔はネクタイを解き、スーツの上着を脱いだ。窓辺に腰掛けると、右半身が冷たいガラスに密着している。壁や扉を隔てた遠くから、人の足音や話し声が僅かに耳に届く。それでも、窓の外で歌う虫の声量の方が勝っていた。
身体を窓に預ける。自分の顔が薄く映り込んでいる。祖父と父によく似た、災いを呼ぶ忌々しい顔だ。喜べるところがあるとするなら、その災禍には二箇所の切り傷が刻まれていることだった。指でなぞっても痛みはない。もう数ヶ月前の傷だ、完治することはないだろう。

(ああ、前も確か……似たようなことがあった)

ひとりで暗闇に身を置いて、眩すぎる光が過ぎ去るのを待っていた時間。人形のように服を着せられ、新しい名前を紹介され、大切なことなど何一つない会場から抜け出し、抜け殻のように座り込んでいた。
昔のことだ。しかし紫魔はいつでも、昨日のことのように思い出せる。膨大な景色の記憶が詰め込まれた引き出しを開けて。空の器を抱える自分を探して、息を切らしていた半身を。

「紫魔。こんな所にいたのか」

記憶の中にいる声と重なり、外に向けていた目を中へと戻す。身長も声色も随分な成長を見せた双子が、スーツを崩すことなく立っていた。やんわりと眉を下げて微笑む。

「無礼講のパーティだから、ひょっとしてって思ったんだ」
「よく覚えていたな。いや、よく分かったと言うべきか?」
「分かるさ。小さい時から見ていたんだから」

聖璃は静かに歩いて来ると、微笑を浮かべる紫魔の前に立った。紫魔の後ろにある星空を見上げて、目を細める。その瞳の中にあるスクリーンは、十年以上前の彼と、何も変わってはいなかった。

「大事なこと……。まだはっきり言えないけれど、むしろ、それが正解だと思い始めているよ」
「へえ、それも覚えていたか」
「うん。あれからずっと考えていたからね。きっと数え切れない世界があるように、大事なことは全部、目には見えないところにあるんだ。目に見えることに隠れてしまって、分かりにくいけど」

聖璃は紫魔の隣に歩くと、暗がりに隠れた壁に背を預けた。沈黙を厳守するばかりの踊り場が佇み、星々は見えない。しかし聖璃の瞳には、白く瞬く淡い粒が溢れんばかりに散っていた。

「言葉も、形も、声も、全てを除けて、残ったものが、大事なことなんじゃないのかな。ふるいにかけて、いらないものを落とすようにさ」
「ああ。大事なのは、ものを見ることだ。先入観を、 偏見を、外見を、言語を、全部削ぎ落として初めて、それを見ることが出来る」
「けれど……それが出来る人って、どれくらいいるんだろう。大体の人は、目で見て、言葉を聞いて、満足してしまうだろう?」
「さあな。大体が多過ぎる以上、俺は数えもせずにシゲキを求めるだけだ」

紫魔はやたらとぶっきらぼうに、溜息混じりに呟いて、窓辺から身体を下ろした。隣に立つ聖璃を一瞥して、ガラス越しに星空を眺めた。幼い頃に見たものより、少し薄汚れてしまったけれど、変わってはいない。今宵も、夜は二人を光から切り取って、パーティから連れ去っていた。

「紫魔……僕は、学院に入るきっかけになった裏道でのお前を見た時、とても怖かったんだ。僕のせいでお前を変えてしまったって、本気で思っていたんだ……」
「あ?……そりゃ、あの時のお前と俺なら、思って当然のことだ」

聖璃は懺悔を謳うような口振りだった。真っ直ぐな瞳が紫魔を見つめている。紫魔は上着を肩にかけながら、平然とした言葉を返した。

「けれども、今なら言える。あの時も……僕の家に来た時から、紫魔は、変わってはいないんだ。きっとたくさんの人が、昔のお前と今のお前を見たら、変わったって思うだろう。それでも、今の僕には分かる。本当に大切な……目に見えないところは、何も変わっていない。そうだろう?」

聖璃は静かにほほえみかけた。紫魔は聖璃と目を合わせる。シャンデリアの光とも、星々の光とも違う明かりが、暖かく瞬いていた。幼い頃にはなかった灯火だ。冬に食べるオニオングラタンスープに感じる温もりに似ている。はるか昔、誰かの腕に抱かれた安堵と、よく似ている。

「どうだかな。自分のことは自分が一番分かっているようで、本当には知らねえからな……」

胸の奥から指先にまで、じわりと広がる明かりを、紫魔は目を瞑って堪能した。唇をゆっくり上げてから、夕日に染まる目を開く。

「俺は好きに生きてきた。この世の誰かにとっては下らねえ戯言も吐いてきた自覚だってある。求めていた物も、未だこの手に取っちゃいねえ。……。ただ、俺の近くには、いつもお前が歩いている。前でも横でも……どこでもない場所を」
「僕が?どこでもない場所を……?」
「ああ。目には見えない場所だ」

ふと息を吸った音が、何かの合図なように、聖璃は思えた。紫魔の瞳がもう一度こちらに向いた時、聖璃はわかりやすく、息を飲んだ。
ガラス玉のような無機質な光でもない、鈍色の明かりでもない、静かな灯火。こうこうと燃える、生きた焔。生命のうねりを、聖璃は紫魔の中に見た。
聖璃は――何故か、むしょうに、涙を零しそうになった。今までの努力が報われたとか、幼い頃の紫魔とは違うとか、そのような理由は、まったく全部捨てて……

嗚呼、「紫魔」はここに居るのだと、ただ、そう思ったのだ。

それを感じとっただけ。それだけだ。

人が生きることには、理由がいらないように。不意に頬を伝った暖かいものにも、また、理由はいらなかった。
じわりじわりと、腹と心臓の間から浮かんできたものが、目元にまでのぼって、こぼれ落ちたのだ。それは、「愛」と呼ぶには、充分過ぎる代物だった。

「聖璃。お前は知らねえかもしれないが……。天道紫魔の見えないところには、常にお前がいるんだ。大事なことの傍に、寄り添っているように」

共に天を見上げ、夜を連れて、聖璃は後を追い掛けてきた。途中その道を分かち、運命を受け入れたことも、支配したことも、叶わない罪の告白も、今は紙切れ同然の資料だ。
紫魔が姿勢を変えた。窓に背を向けて、壁にもたれかかる。長く伸びた黒髪が、緩やかに浮いて、紫魔の背へと落ちた。

「天道聖璃がいることで、天道紫魔は、俺のものになれる……。お前と出会ってから側にいた時間の分だけ、強く。それに気付いたのは、かなり最近なんだぜ?笑い話だ、なあ」

ククク、と喉を鳴らして、紫魔は目を細めた。彼にしてはとても珍しい、穏やかな眼差しだ。
聖璃はこぼした涙を拭こうとも思わなかった。わずかな笑みをたたえて、浮かんだ疑問を、口に出すことしか出来ない。

「それならぼくは、おまえの居場所になれたんだろうか」

幼く無垢な瞳だ。子どものように純粋な疑問だ。声が涙と愛に滲んでいる。紫魔はそれを受け止めた後に、ふ、と気が抜けたように笑った。

「居場所?馬鹿を言え。そんな物より、もっと大事で、近くのものだ。チャチな言葉に惑わされるなよ。お前は俺にとって、天道聖璃なんだ。他の言葉で飾り立てるつもりなんて、何処にもねえのさ」

――単純で、簡単な話だったのかもしれない。聖璃はそう感じた。そんな気持ちが胸を押した。
自分は天道聖璃で、今目の前にいるのは天道紫魔で、二人は同じ時間を過ごした分だけ、強く見えない糸で結ばれている。そんな簡単なことだった。そんな簡単なことに、意外と、人は気付かない。見えないところに大切なことがあると、気づけないように。

「紫魔。ありがとう」

伝い落ちた温もりのあとを、一筋差した月明かりが照らしていた。

「聖璃。それは俺の言葉だ」
「え」
「……それ以上は、言わねえよ」

紫魔は、優しく笑っている訳でも、何でもなかった。それでも、その言葉そのものに含まれた、沢山の意味が嬉しくて、聖璃は何も言わず、頷いた。
すべての世界にキスがしたい心地だった。ただその言葉が、本当に嬉しかった。
それだけ。ただ、それだけのことで。

星の向こう、天の彼方までが、すべて輝いているように思えるのだ。

紫魔と聖璃。二人で使ったこの長い時と、果てしない世界の中でも見失わない大切なものが、すぐそこにあるから。



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二人の集大成。