木上の記憶

それは忘れる事が出来ない光景だった。


「――紫魔!」

弾んだような呼び声に、紫魔は周りを見渡した。天道家の屋敷の裏側は、茂みと木々がひっそりと輝いている。表では噴水に人々の視線が盗られてしまう分、裏では緑の美しさが主導権を得ていた、というところだろうか。
紫魔は拾われた時よりも、少しだけ髪の毛が伸びていた。耳元に髪の毛がかかっているのは、今までになく新鮮だ。控えめながらも金銀の装飾が施された、絹の滑らかな袖に腕を通すことにも、ようやく慣れてきた頃だった。

「紫魔、こっちこっち」

明るく幼い声が、自分を呼んでいる。紫魔はじっと耳を澄ませて、音の出る場所を把握する。頭上から掛けられていることに気が付くと、首を上に傾けた。
眩い光が夕日色の目に飛び込む。眉間まで眩んでしまい、思わず目を細めると、コロコロとした笑い声が耳に入ってきた。この一年ですっかり馴染んだ声だ。双子の立場として、間違えるはずもない。しかし、紫魔は彼の名前を呼ばなかった。名を呼ぶことに、意味を見いだせなかったからだ。

「紫魔は何してるの?」
「何も」
「そっか。じゃあ、こっちに来てよ。今僕暇だったんだ」

彼は木の枝に座り込み、退屈そうにぷらぷらと足を動かしている。いつもは椅子やソファに座っているインドアなイメージだったのに、珍しいことだった。
木は二股になるように幹を伸ばした、珍しい形をしている。そこの間に足を引っ掛けて枝を掴めば、小さな身体でも簡単に登ることが出来た。紫魔も例外ではない。むしろ、何の苦労もせず、声一つ上げず、あらかじめ登り方を知っていたように、彼の隣に座って見せた。わあ、と彼は大袈裟な声を上げる。

「流石紫魔!僕が助けようと思ったけど全然大丈夫だったね」
「ああ」
「良かった……。ひとりじゃ不安だったんだ」

宝石にも例えられそうな緑の瞳が、今は少しばかり曇っている。彼は木の上から、屋敷の壁を見つめた。白く塗られたそこは、ただ視線を受け止めるばかりで、恐ろしいほどの沈黙を貫いている。

「今……お客さんが来ててさ。最近よく来るんだけど、僕、あの人怖いから嫌なんだ……」
「……怖い?」
「うん。男の人なんだけど、たまにね、えっと……。お父様といるのが、なんか、怖い顔してて」
「……」
「……。紫魔は怖いものとか、なさそうだよね。良いなあ……怖いって感じないの。僕も紫魔みたいになれたら良いのに、ずるいよ」

曇って色が見えにくい瞳が、今度は紫魔へと向けられる。小さく微笑んだ彼の眉は、その恐怖と向き合えないことを訴えていた。下がりがちで、切なくて、虚しい。そのどれもが、紫魔の目と手を通り抜けてしまいそうな感覚だった。そんな紫魔のぼんやりとした、意識のないような目とかち合った時、彼はふるふると首を横に振った。

「ごめん。こんなこと思ってたら、だめだ。お父様に怒られちゃう……。……僕、べつに、紫魔のこと怒りたくて、紫魔をここに連れてきたわけじゃないもの」

やがてその顔は俯き、目尻には静かに涙が光った。紫魔は彼の一連の行動を、ただ見つめるばかりだった。紫魔の体も心も、ぴくりとも動かない。震える肩が見えても、膝に落ちる涙が見えても、近くで囀る青々とした木の葉の方が、よほど彼を励ましていた。
初夏が近付く太陽の光は、木漏れ日となりながら暖かく、彼を包んでいる。紫魔を包んでいるかは分からなかった。感じないのならば、どちらになっても、同じことだ。

「紫魔は悪くないのに、ずるいって、多分、僕……。人のもの取るのダメなのに、僕は、ずっと一緒にいたらいつか、悪魔になっちゃうのかな」
「……俺が?」
「ううん、僕が」
「さあ」

分からない、と紫魔は呟いた。淡白な返事は、興味が無いわけでも、退屈を感じているわけでもない。
今の紫魔は、呼ばれたら来るし、訊けば答える。そういう人間だった。

「木の上って不思議だね……紫魔」

ぽつりとこぼれた彼の言葉に、紫魔は今一度耳を立てた。「木の上」が「不思議」だなんて、思ったこともない。たった今同じ景色を共有しているはずなのに、彼とは感じることがあまりにも違う。違う。違う。紫魔は、そこから何も発展しない。何も、生まない。
彼はごしごしと腕で涙を拭くと、紫魔へと微笑みかけた。彼に拾われるまで、一度たりとも向けられた記憶のない視線。未だに、紫魔はそれに、驚きに似た感情が内で渦を巻いている。強風に吹かれた木々のように揺れている。

「ただ木の上にのぼっただけなのに、今、僕は部屋で一緒にいるより、きみと一緒に居られてるって感じがするんだ」
「一緒に、居られてる?」
「そうだよ。何だか、今この世界に、僕と紫魔だけしかいないみたいな感じ、しない?」

紫魔は、静かに――辺りを見渡した。
枝の一本が、葉の一枚が、下から見上げて見るよりも遥かに、生き生きと主張しているように見える。空の日差しは、地に足を付けて歩いているより、眩しく思える。
紫魔は、下を見下ろしてみた。
自分の足の下に、偶然、召使が通っているのが見えた。人の頭の上をまじまじと見るのは初めてだ。ほんの少し、高い場所にいるだけ。ただ、それだけなのに。
後ろを振り返った。下半分は塀しか見えないが、その隙間から、家の屋根が見える。扉の上に鳥が巣食っていた。
横を見る。同じ高さの枝に座る彼が、首を傾げた。

「ね」

ふふ、と彼は笑った。紫魔が何も言わずとも、微笑まずとも、眉一つ動かさずとも――「何か」を感じることが出来たと、理解しているように。

「ああ」

紫魔はゆっくりと頷いて、頬を撫でる風に、体を任せた。穏やかな時間だ。今なら紫魔も、この隔離された空間で、彼に思うことをすべて話せるような気がした。けれども生憎何も思えなかったので、そのまま黙って、口をつぐんでいた。彼はそんな紫魔の隣で、無言の時を、喜びながら重ねていた。
それが、ただただ、忘れられない光景だった。






「――紫魔!」

焦りを含んだ呼び声に、紫魔は身体を起こした。覚醒したばかりの脳に酸素を回すため、くあ、と欠伸を噛み殺す。夕日色の瞳を下へと向けると、己の双子と呼ばれる彼が、焦った様子でこちらを見上げていた。
あの時よりも彼の身体は大きくなり、顔は大人に、かつ美しく成長した。高貴な絹のような金髪は背まで伸びて、結う程になっていた。かく言う紫魔自身も、月日が流れ、彼と同じような髪の長さになっている。彼と違うのは、闇をも飲むような漆黒の色である事だ。
彼は息を切らしている。白いこめかみに浮く汗が光っていた。くく、と紫魔は喉を鳴らす。

「よう、聖璃。随分とお急ぎのようじゃねえか」
「やっぱりここにいたのか……。もうすぐ対抗戦が始まるぞ」
「ああ、そんな時間か。……俺の出番になったら起こせ」

もう一度紫魔が木の上に寝転がり出すと、下で息を切らしていた彼――聖璃は、思わず息を詰まらせた。

「なっ……!それは駄目だろう、ほら、降りてこい」
「俺の興味に引っ掛かる奴はいたのか?」
「今日は……いなかったかな」
「ほらな。行かねえ」
「あっ!しまった……うう……」

はっとして聖璃が自分の口を塞ぐも、時すでに遅し。紫魔は再び寝転がる用意をしていると、聖璃は難しい顔をして首を傾けた。

「お前、そんなに木の上が好きだったか?学院に来てから、ここにいる事が増えたけれど……」

聖璃の疑問に、紫魔は硬い木の感触に背中を預けながら、笑みをこぼした。いつものあざけるような笑い方とは、少し毛色が違う。まるで、遠い日を懐かしむようだった。

「ここにいると、俺しかいないような錯覚を覚えるからな。誰にも俺の邪魔はさせねえ」
「錯覚?」
「お前もここに来るか?」
「いや、僕はいいよ。向こうの人と話をして来なければ……。出番になったらまた呼びに来るからな、紫魔」

聖璃は慌てたように背を向けて、駆け出していく。結われた金の髪がひらめいた。すぐに角を曲がって、見えなくなってしまう。
木の葉はざわめき、生き生きと動き出す。包み込むような木漏れ日を、今は、辛うじて感じることが出来る。温もりと言うよりは、熱、という感覚に近い。紫魔はごろりと寝転がると、手のひらを上へと掲げた。

(お前の世界は、もう二人じゃねえ、か。聖璃)

ふ、と息を吐く。溶けるように消えていく。己の呼吸と、心臓の音が、身体に馴染む。昔は考えられなかった感触。感覚。
あの日――僅かばかりに地上とは外れた世界で見た物を、十年近く経った今でも、紫魔は覚えている。鮮やかに、色濃く。
寂しくも、悲しくもない。ただひとつ言うのならば、それは決意に近い。

(もう、あの時の天道紫魔じゃねえ。俺は俺の好きに生きる……。『木の上にいる限り』、『俺はお前と違う世界にいること』を証明出来るのさ。なあ、この意味が解るか?聖璃)

切り離された空間。違えた道。
今でも、紫魔は聖璃とは感じるものがまったく違う。違う。それでも常に、過去の切れ端が、その胸にたゆたっている限り――天使と悪魔を結ぶ糸は、決して切れる事はない。一瞬でも、緩むことはない。紫魔が、彼の声を覚えている限り。

閉じた瞼の裏で、切り取られたように木上に浮かんだ記憶が、紫魔に語り掛けていた。

――何だか、今この世界に、僕と紫魔だけしかいないみたいな感じ、しない?


(紫魔が木の上を好む理由の話)


↓若干解説↓ (自分の解釈をしんじるぜ!という人は読まないことを推奨)
紫魔はよく木の上で昼寝してたり休んだりしてるけど、それは幼い頃聖璃が言った「木の上にいると別世界にいる気分になる」(噛み砕いた表現)という話を未だに覚えて信じているから。
紫魔は幼い頃心がぶっ壊れてから、自分じゃそれを感じることが出来ない分を、聖璃に教えてもらっている。
大きくなってから紫魔はそれを思い出して、敢えて頻繁に木の上にいることで、「聖璃と違う道を歩んでいる」「聖璃とは違う世界にいる」という証明をすると共に、「聖璃の言葉を今でも覚えている」「聖璃との記憶は紫魔の胸に染み付いている」という証明もしている。
もう少し噛み砕いて言うと、「俺はお前と違う道を歩くが、お前から教わったことは片時も忘れたことがない」という紫魔からのメッセージが、「よく木の上にいること」そのものを指している。……んだけれど、そんな複雑なことは、聖璃にはもちろん、普通に読んでると伝わらないんじゃないかと思って解説も付けました。(一応分かるように書くようにはしてるけど今回は自信がなかった)