EX.1

漆黒に染まる闇の中、街灯のみならず月光をも避けるようにして、男は立っていた。耳に押し当てる、その仄かな光のみで顔を照らしながら。

「ああ。……じゃあ、それは無理だな。機を見計らうしかねえか。良いか、タイミングを逃すな。アイツをこっちに入れる方法はもう――たったひとつしか残っていないみてえだからよぉ」

僅かに覗くことが出来るその口元には、三本の欠けた歯と無精髭が、鈍く光っていた。



EX.1



「ヒカルさん!お願いします!」
「ういっす!」

聖璃の指示で、ヒカルは太ももに仕込んだホルダーから素早くスプレー缶を取り出した。緑が輝く茂みに向かって勢いよくスプレーを噴射すると、紫色の霧が広がる。途端、静まり返っていた茂みがのたうち回るように騒ぎ出す。

「行くぞ!」
「あっ、雲母さん……!」

大剣を持った雲母が、聖璃の横をすり抜けて茂みへと飛び込む。凶暴な犬のような体躯をした魔物がスプレーから逃げるように顔を出し、そこへ思い切り剣を振りかぶった。
雲母に抉るように脳天を切られ、魔物は少しの痙攣の後に動かなくなった。その傷口から炎が溢れ、見る影もないように燃え尽きる。

「さっすが雲母ー!」
「まだ喜ぶなヒカル。時間的にもあと少し……余波はどうだ?」
「んーアタシが見てるうちはだいじょーぶそー。ねー聖璃、念入りにもうちょい毒撒いた方が良い?」
「やめておきましょう。ヒカルさんの毒は多いと僕達の身体にまで支障を来たします……。紫魔」

聖璃がほとんど背中合わせの形で後ろを向いていた紫魔に声を掛ける。紫魔は静かに三叉槍を持ち、仁王立ちの形で前を見据えていた。

「気配がある。能力は使っても良いな?」
「程々にするんだぞ」
「ああ」

紫魔は三叉槍を握り直すと、地面に向かって刃の先をトンとつついた。すると小さな地響きの後に前方の地面が何処からか「下へと」崩れていき、人が二人寝転がってしまえる程の、大きな丸い穴が空く。様子を伺っていた、同じかたちの二体の魔物が紫魔へ向かって飛び出した。

「『見ている奴ら』に能力だけって思われるのも癪だな……」

紫魔は三叉槍を捨て置くと、素早く拳を構えた。浮いた魔物の下に入り込み、下から拳を突き上げる。すぐに足を振りかぶり、丸く空いた穴に向かって蹴り飛ばした。その結末を見るまでもなく、「終わった」とでも言うようにその場から背を向ける。
攻撃をしなかったもう一体が無防備な紫魔へともう一度飛びかかるも、その身体は横から白い拳に思い切り殴り飛ばされた。穴に落ちる魔物を見送り、はあ、と聖璃が呼吸を整える。
紫魔が手のひらを後ろへ翳すと、穴は手のひらサイズの小さなものへと変わった。

「お前ほどじゃないけれど、僕も力は付いてきているんだな……」
「俺を超すんだろう?当然だ」
「……ふふ。もっと努力をしなくては……天道家に相応しい人間にもなれないからな」

二人が会話を交わしている間に、リーダーの雲母には先生から演習の終了が知らされている。聖璃はそのまま雲母の方へ向かおうとするが、紫魔はその場に立ち止まっていた。付いてくる気配のない紫魔へ振り返る。

「紫魔?」
「…………。今行く」

紫魔は僅かに俯いていたが、ゆっくりと歩き出した。聖璃は小さく微笑んだ後に、再度歩みを始める。
学院に入ってから六年――演習も手馴れたもので、勉学にも大きな支障はなかった。とっくの昔に卒業資格は貰っていたものの、それでもこの場に留まるのは、雲母とヒカルのために留まるという聖璃の提案と己のシゲキを見出すためだった。
結局六年前のあの日以降、紫魔の胸に滾るような血潮は流れたことはない。聖璃も随分と努力したらしく、紫魔に実力が追い付いてきた。その人の良さ故に対人戦での記録は良くはないが、魔物との演習となれば人が変わったように強くなる。

(……天道家……か)

いくら聖璃が強くなろうと――その枷がある限り、あるいは紫魔が人間である限り、聖璃とシゲキのある勝負は出来ない。紫魔は肩を竦めて、学院への道を歩いて行った。



学院へ帰る途中でも、ヒカルはウキウキしながら浮き足立って歩いている。彼女の周りだけ星が舞っているようだった。

「明日休みっしょ?雲母遊ぼうぜー!イエーイ!」

雲母は苦虫を大量に噛み潰したような顔で、首を横に振った。

「悪いが明日は……家の人間が来るから追い出す日だ」
「あっそこに戻る選択肢ない訳ね。んじゃ紫魔と聖璃は?」

コロッと標的を変えてきたヒカルに、聖璃はきょとんとして目を瞬かせる。横にいる紫魔は反応を示さず欠伸を噛み殺した。

「明日ですか?」
「俺と聖璃は手合わせだ。付き合う暇はないぜ」
「紫魔!またそんな言い方……申し訳ありませんヒカルさん、また機会があればお願い致します」
「あーいーよいーよ紫魔はとっくに慣れた慣れた。ちょっと増幅器見に行こうと思ったんだけど誰誘おっかなぁ……」

ヒカルの意識がふわふわとよそへ行った隙に、他から見て違和感がない程度に、聖璃は紫魔へと顔を寄せた。その表情は硬い。

「聞いていないぞ、手合わせなんて」
「言っていないからな」
「……明日のいつからだ?」
「朝飯食い終わったら」
「分かった」

息をするようにあっさりとしたやりとりを交わし、話はそれで終わりとなった。自宅住まいのヒカルと女子寮の雲母と別れ、寮の自室へと戻る。
家から運んできた本棚以外は、寮の備え付けのもののみで整理されていた。二人分の机とベッドが、六年経ってもほとんど傷付かずに置かれてある。お互いに決め事がなくとも、自分のスペースはしっかりと分かれていた。荷物を置いたところで、聖璃はふと、床に座り本を開き始めた紫魔へと振り返った。

「今日はいつもの公園へ行かないんだな」
「明日のために温存だ。余計な体力消費出来ねえんでな」
「ああ……一理ある。今は何の本を読んでいるんだ?」
「医学」

へえ、と感嘆の声を上げながら、聖璃は鞄を開き、机に学院の課題を広げた。

「また新しい分野に手を出したんだな。紫魔のそういう所尊敬するよ」
「人体の仕組みを知っておけば対人戦で役に立つだろ。急所はもう知ってるがな……基礎医学だけに留めておくし深くまでは首突っ込まねえよ」
「そ、そっちか……。てっきり僕は、討伐団員になった時怪我人を救うために勉強しているのかと……」

がっくりと肩を落とす聖璃に、紫魔はふんと鼻で笑い飛ばした。

「それはお前が勉強するならの理由だろう?俺じゃねえ」
「うう、言い返せられない……」
「一度読んだらもう必要ないがな。くれてやろうか?」
「遠慮しておくよ。本棚を新しく買うまで、本を増やすのはやめようって決めてあるんだ……」

聖璃はチラリと部屋の脇に置かれた本棚へ目を向ける。幼い頃からの付き合いである本棚には、隙間がまったく見られないほど、ぴっちりと本とスケッチブックが詰められていた。





あ!という弾んだ声に、紫魔の頭には嫌な予感しか過ぎらなかった。あからさまに嫌そうな顔でもしてしまっていたのか、聖璃が怒った顔をしている。

「紫魔、なんて顔をしているんだ」
「……俺の夕飯は後にするかな」
「駄目だ」

人でわいわいと賑わう食堂の中、どうやっているのかダッシュで近寄ってくる黄金色の人影に、紫魔はとりあえず顔を見られないようそっぽを向いた。

「聖璃!」
「弘夢さん、こんばんは。弘夢さんもお夕飯ですか?」
「そうそう!こういうのってあれだよな!んーと……キグルミじゃなくて」
「奇遇ですか?」
「それ!聖璃頭良いなー」

弘夢から褒められて、聖璃は照れくさそうに微笑んでいる。二人して和やかな空気に包まれている間に、紫魔はさっさとその場から離れた。
早めに列に混じっても良かったが、見知った顔を偶然席に見かけて、ひょいと近寄る。

「よう」

に、と口元を笑みに歪めて声を掛ければ、逞しい肩と赤い髪が僅かに揺れる。不思議そうに見開かれた目と目が合った。

「……紫魔さん」
「お前、寮だったんだな。初めて知ったぜ。……俺が普段あまり寮で夕飯食わないから仕方ねえが」

くく、と喉を鳴らして笑う。公園でしか会ったことのない馬場紅栄と食事中に会ったのは初めてだった。まあそれなら、と相槌を打とうとする紅栄に、正面に座って口一杯に物を入れている愛理が反応を示した。

「んあ?馬場誰だ?知り合い?」
「……邪魔したな。またやろうぜ、殴り合いでも蹴り合いでもよ」

面倒なことになる前にと、ひらりと手を振ってその場を去る。後ろで何やら騒ぎ出した気がするものの、人の間を縫って抜け出したのでかかわり合いにならずに済んだ。
そのまま列に並ぼうとすると、慌てた様子で聖璃が走ってくる。

「紫魔!一体どこに行っていたんだ」
「少しばかり知り合いに御挨拶をな。不満か?」

煽るようにして目を細め、挑発的に聖璃を見つめる。聖璃はそれを聞くと、驚いたように目を丸くした。

「お前……知り合いがいたのか……!?」
「……俺を何だと思ってんだよ、お前はよ」

思わず気が抜けて呆れてしまう。聖璃は一変して嬉しそうな笑顔になっていた。心なしか目が輝いているように見える。

「いいや、それなら良いんだ。どんどん挨拶してきてくれ」
「それも可笑しい話だろうがな」
「紫魔に知り合いが出来たから嬉しいんだ。今日は僕のお金から出すよ」
「そりゃ良い。ついでに注文も頼むぜ。辛い物なら何でも良い」
「うん」

紫魔は手早く辺りを見回し、食べ終わった学生が移動するのを見計らい、近くの席を取った。二人分の食事を取った聖璃が機嫌良さそうに席へ運んでくる。

「紫魔。ペペロンチーノで良かったか?」
「悪かねえ。一味もらうぜ」

紫魔は皿を持って立ち上がり、調味料置き場に向かう。そのまま振りかけられる一味の蓋を回し取り外すと、入っていた中身の全てをざーっとパスタの上に流し込んだ。蓋を戻して置く途中、側を通った人間の視線は嫌でも分かった。一味だけでは足りないと思い七味も半分程掛けておいた。

「……で、お前はここじゃアレは頼まねえのか」

戻る最中に覗いた聖璃の皿を見て、紫魔は思ったことを呟いた。返答しようとしたが、戻ってきた紫魔の皿を見て聖璃は苦笑を漏らす。

「紫魔、それ絶対身体に悪いぞ……」
「好きなもんを食う。それがここのルールだろ?何も間違っちゃいないぜ」
「……そうか……。それで、アレはオムライスのことだろう?頼まないよ」

もくもくと鯖の味噌煮定食を口に運んでいる聖璃を見ながら、紫魔も真っ赤な粉に溢れたペペロンチーノをフォークに巻き付ける。

「今日メニューにはあっただろ。毎日でも食えるって言ってたじゃねえか」
「それはうちのシェフが作るからな。あれが一番おいしいから、こっちに来てから頼まないようにしているんだ。本来、おふくろの味と呼ぶべき物だけれど……僕のお母様はお忙しかったから仕方がない」
「……『おふくろの味』ね」

紫魔はたっぷりとパスタを巻き付けた後に、口の中に入れた。もしゃもしゃと味わいながら次の分を巻いていく。
話には聞いたことがあるが、紫魔には甚だ疑問だった。いつどのように、どこに産まれ落ちれば、本来の「おふくろの味」に出会えたというのか。己も――聖璃でさえ。
ふ、と笑って、紫魔は肩を竦めた。

「ま、俺にとってはコイツが『おふくろの味』かもな」
「え?ペペロンチーノが?」
「いや。……こっちの話だ」

紫魔はフォークに巻き付かれたパスタを頬張る。慣れた口の中に広がる僅かな刺激が、感じないはずだというのに仄かに苦味を舌に与えた。





就寝時間の五分前に、紫魔は読んでいた本を閉じた。解剖学の終わり掛けで、流石に眠気のこもる頭には入って行きづらいものだったからだ。くあ、と欠伸を噛み殺す。

「もう寝るぜ」
「うん。……なあ、紫魔」

ベッドに寝そべり、寝る気満々だった紫魔に、聖璃の優しい声が届いた。向こうもベッドに寝る気はあるようで、まずは電気を消される。

「ん?」
「明日は久しぶりの手合わせだな」
「……何だぁ?随分とやる気じゃねえか。俺を楽しませてくれんのか」

くつくつと、真っ暗な宙に笑い声が響く。聖璃側の空気の色が変わったように思えた。

「ちっ、違う。……いや……考えようによってはそうかもしれない。試してみたいんだ、今の僕の実力を」
「ほう。…………なあ、聖璃」
「え?」
「どうするんだ?それを。その実力とやらを、お前はどう使う?」

数秒、間があった。布擦れ音もない、完全な静寂が漂っている。

「何を、決まり切ったことを……?僕の心は六年前から変わらない。天道家に相応しい貴族となるため、そして紫魔、お前がその道を逸れる時に止められるためだ」
「六年間も立派な事だ」
「どうしたんだ……?お前らしくない質問じゃないか」

心配げな聖璃の声に、紫魔はそちらへ寝返りを打った。幼い頃に同じベッドを共にした記憶が蘇る。今はあの時のように、顔は突き合わせてはいない。
しかしそれでも、「向こうに聖璃が寝ている」という、確信に似た信頼があった。

「……お前は、今まで歩んできた道とまったく別の道を歩むこと……歩まされることでも良い。これをどう思う」
「別の道?」
「……当たり前だと思っていたことを、すべて塗り替えられ……まっさらなページから知らぬ文字でノートを書き始める感覚に似ている……」
「…………」
「……。ハ、この俺としたことが、らしくもねえ感覚にでも浸っちまったようだ。だが質問には答えてもらうぜ、聖璃」

聖璃は再び静かになった。向こうから聞こえる呼吸の音すらも小さい。考え込んでいるようで、紫魔は夕日の色をした瞳を猫のように暗がりに光らせ、待ち続けた。

「紫魔。お前の過去を聞こうと思ったことは、僕は今まで一度たりともなかった。これはお父様もお母様もだ。……それなのに、何故か今、それをとても聞きたくなってしまった。気を悪くしたなら許して欲しい」
「……悪くはねえが、質問の答えになっちゃいないぜ」
「うん、これは前置きだから……。結論から言おうと思う。紫魔、僕はまず『別の道を歩む』という考え方がない。だから答えようがない」

紫魔は小さく息を止めた。向こうに分かるくらい、は、と強く息が吐かれる。

「……そりゃどういうことだ」
「僕はこの人生は全て運命だと思っている。良い事も悪い事も、神が定めた思し召しなのだと。『別の道』だと思えないんだ……」
「……へえ。なら、俺とこうしてるのも運命の中のひとつってか?」
「むしろだからこそ、だ。紫魔」

ぱち、と軽い音の後に、聖璃のベッドからオレンジ色の明かりがついた。ベッドサイドに置かれた棚のライトを、今ようやく付けたらしい。嬉しそうな聖璃の顔が照らされている。

「お前と出会えたから、人生を運命だと思えるんだ。こんな双子、世界を探したっていないだろう。……確かに僕という人間は、運命にいるだけの天道聖璃かもしれない。それでも言えるんだ……僕は導かれし運命の中で、確実に奇跡を選んでいるのだと」
「運命の中で、奇跡を選ぶ?……変な話だな」
「ふふ、僕も自分で言ってそう思うよ。けれど……そうとしか言えない。……あ……ただ……」

聖璃は言葉を切って、そっと目を細めた。幼く、何も知らなかった頃の無垢で無邪気な眼差しとはまた異なる質を持っているように見えた。
仮に、その幼き質を「天使」と呼ぶなら――……。いや、「天使」になると、聖璃はいつかそう言ったように、紫魔は記憶していた。紫魔が天界から堕ちた時に引き上げる天使だと。しかし最早、聖璃はそれではない。

「例え道は選べなくとも、願わせて欲しい。ただ一つ。お前が……幸せになることを」
「…………幸せ?……シゲキはあるのかよ」
「あはは、それはそうだな。まずお前の喜びはシゲキだから……うーん、難しいなあ」

怪訝そうな反応をする紫魔に、聖璃はくすくすと小さく笑った。そうして、再び穏やかな面持ちへと変わる。

「紫魔……色々言ってきたけれど、お前はお前の好きに生きてくれ。この世の誰にも縛られることなく生きていく……。それが天道紫魔の生き方だと僕は信じている」
「……ふは、お前が俺の生き方を語るか?ま……悪くねえ解釈だ。今日はどうにもお喋りが過ぎる、そろそろ寝るぜ」
「……うん」

ぱち、と再び電気が切られる。紫魔は背を向けて寝返りを打った。目を瞑り、先程の聖璃の言葉を反芻する。

(願わせて欲しい。ただ一つ。お前が……幸せになるように)
(…………この俺に幸せなんざ、運命も神も天使も言わねえ。言うのはお前くらいだぜ、聖璃。……神でも天使でもなければ、『聖人』か……)

うとうとと微睡み始めた時、幼いあの時のように、聖璃の声が聞こえた。

「いつか――お前の話を聞かせてくれ、紫魔。僕はその昔話を、いつまでも待っているからな……」

それが現実の聖璃が寝る間際に言ったのか、夢の中にいる聖璃が囁いたのか、結局紫魔には分からずじまいだった。