EX.2

約束通り朝食を取った後、二人は寮を出た。増幅器も何も持たずに手ぶらで、学生が行き交う道を歩いている。涼しい顔の紫魔に、聖璃は眉を下げた。

「紫魔、良かったのか?手合わせだというのに、何も持たずに出てきてしまって……」
「今日は殴り合いだ。必要ないだろう?」
「なっ……!物騒な言い方だな……そういえば森でやるんだろう?申請は?」
「森でやるなんて一言も言っちゃいないぜ、俺はよ」
「ええ!?……じゃあ、どこでやるって言うんだ」
「まあ黙ってついて来いよ」

人の悪い笑みを浮かべ、紫魔はすたすたと歩き出す。聖璃は溜息をつきかけたが、その直前で僅かな笑みを落とした。

(いつも通りに戻ったみたいだな。……今の紫魔は昔(マシラ)と違う、人間なんだ。落ち込む時や気分を変えたい時もあるよな……)

聖璃は歩きながら、昨夜の紫魔を思い返した。悠々とした態度が常である紫魔の、どこか思い詰めたような声色。演習が終わった時からぼんやりとしていることが増えたような気もする。そういう時、紫魔は「昔」に戻っているのだと、聖璃は直感的に気付いていた。燃え盛る炎に似た瞳がそれを語っているのだ。

(お前のシゲキは、天道家か?)

かつて、十年程前だったか、まだ自分を持っていなかった紫魔の口から初めて「シゲキ」が飛び出したあの時。思えば何故紫魔が「シゲキ」にあれほどこだわるのか、そのルーツを聖璃は知らなかった。聖璃と出会ってからそれを学ぶような機会はない。

(すると、やっぱりもっと前だ。僕と出会う前……そこに、今紫魔を揺らがせているもののヒントがあるはずなんだ。……こんなに長い間の付き合いだというのに、僕は紫魔について知らないことが多すぎるじゃないか……)

お互いを知らずして、何が双子なのか――……。聖璃は紫魔にバレないように、握り締めた拳に爪を立てた。考えを巡らせているうちに、二人はとっくに学院の前を通り過ぎていた。

(けれども、真実は紫魔の口から聞きたい。待つしかない……僕は、どんなことでも受け入れる準備は出来ている)
「聖璃」
「えっ?な、なんだ?」

聖璃はばっと顔を上げた。紫魔は横を歩きながら涼し気な目をこちらに向けている。

「何湿気た面してやがる。手合わせが不安か?」
「いや、そうじゃないんだ。……紫魔、僕は」
「聖璃」

今度は先程より強い言葉になっていた。紫魔は静かに目を瞑り、聖璃は息を飲んだ。ふたりの足音だけがこつりこつりと鳴っている。

「言うな」
「い……言うな?」
「その先を、言うな……と言ったんだ」

紫魔の声は堅く、鋭さがある。敵を目の前にした時とも、仲間を前にした時とも違う。警告でもなかった。それにしては、あまりにも危機感のようなものがなかった。
紫魔は目を開いて、小さく伸びをした。

「今日の目的は話じゃねえ。……そうだろう?」

紫魔は鋭い視線だけを聖璃へ送っている。聖璃は途端、締め付けられた胸に、思わず手を添えた。

「そうだな。……すまない」

聖璃は精一杯の微笑みを紫魔へ向け、僅かに俯いた。その横顔を、紫魔は目を細め、眺めるように見つめていた。


EX.2


読めた、と滑り込ませた褐色の拳は、寸でのところで腹に止められた。乾いた音が響く。咄嗟に身を引こうとすると、聖璃の絹糸のような髪が目の前に閃いた。

「そこだっ――!」
「チッ」

頬を殴り飛ばすそれを、紫魔は上体を反らして躱す。そのまま伸ばされた腕を掴み蹴りを繰り出すも、空いた腕でがしりとガードされた。力を入れてもどちらも引かない。
そのまま膠着状態になりかけたと思ったら、再び太陽に当たる髪が煌めく。

「うぉあぁぁああ!!」
「なっ……クソッ!」

ガヅン!と鈍く太い音が響き、紫魔の目の前に小さな火花が散った。全力の頭突きでお互いにふらついたところをすぐに立て直し、互いに拳を振りかぶる。

「!」
「……」

しかし、お互いに身構えたところで、その動きは止められた。聖璃はふう、と息を吐いて、その場に座り込む。

「引き分け……だな」
「ああ。このまま殴っていたところで勝敗は変わらない……。分かってきたじゃねえか」
「頭脳派の紫魔と戦うんだもの、これくらいは考えられるようにならないと」

紫魔は近くの木の根に腰掛けた。先ほどの衝撃で若干頭がくらくらとしている。頭を押さえると、座り込んでいた聖璃が慌てて立ち上がった。

「紫魔。大丈夫か?」
「……お前は見掛けによらず本当石頭だな。十分だけ休ませろ」
「う……うん、分かった。しかし、こんなところよく見つけたな……」

聖璃は辺りを見回す。公園にしては遊具が少なく、どちらかと言えば小さな広場と言う方が近い。しかし人は紫魔と聖璃以外にはおらず、場所も商店街からも高級住宅街からも中途半端に離れたところにあった。木には小鳥が止まって囀っている。聖璃はかわいらしさに目を細めた。

「人がいないせいかな……賑やかなところが嫌いな訳じゃないけれど、心が安らぐよ」
「簡単な話だ。おエライさんはこんな所で休憩してる程暇じゃねえ、商店街にいて休憩を取ろうとしてる奴はここまで来るほど気力がない……絶妙な位置って訳だ」
「なるほど」

柔らかな日差しが天から降り注いでいる。紫魔は木陰に身を休めながら、小鳥を見ようとそっと目の前を横切っていく聖璃を見た。木の葉の間を縫って注がれる光が、笑みを浮かべる聖璃を鮮やかに照らしている。

「……綺麗なところだ……」

紫魔は、聖璃と同じ景色を見たところで、そうやって顔をほころばせられる自信も何もなかった。す、と差し出した人差し指に、小鳥が止まる。翠の眼差しは、自然の木々よりも、降り注ぐ光よりも、穏やかで優しい。この場にあるすべてが、聖璃を輝かせているようだった。

(聖璃――お前の『強さ』は、俺を止めるためでも、ましてお家のために使われるようなモンなのか……?)

紫魔の胸の内で、小さな疑問が芽生えていた。
聖璃自身は気付いていない、聖璃の「強さ」は、紫魔の想像を遥かに超えていた。紫魔と競い合う力に頼った「強さ」など、それに比べれば飾りのようなものだ。
聖璃は例え見知らぬ土地だろうと、泥の中だろうと、炎に包まれる町の中だろうと――誰かにその手を差し伸べ、己のすべてを差し出すことが出来る。誰に感謝をされる訳でもなく、褒められる訳でも、むしろ本来の道に背いて学院に通ってまでも、その道を走り続ける。
まさに、今。聖璃はそう生きている。

(……お前こそ……)

生きるべきではないのか。――己のために。

「紫魔」

聖璃がこちらを振り向いて、喜びに微笑んでいる。人差し指にいた小鳥がいつの間にか肩に乗っていた。

「見てくれ、この子……僕になついて…………」

ふ、と、聖璃の目が驚かれたように見開く。撫でていた指は力なく垂れ下がった。

サア、と風が吹いた。乗っていた小鳥が羽ばたいてゆく。
日が陰った。聖璃の身体が浮くように――後ろへ傾く。

「…………聖璃?」

瞬間、聖璃の着ていた薄手のコートと、シャツから、見覚えのある赤黒い色が滲んだ。日陰に紛れて、聖璃の口から赤い色が溢れる。後ろから、何かに刺されたかのように、聖璃は背を反らせてふわりと後ろへ倒れ込んだ。

「……ひじ、……」

そのまま、音もなく――否、紫魔の耳に入らなかっただけかもしれない。聖璃の身体は、広場の乾いた砂の地面に横たわった。生きた血が口と腹から噴き出している。茶色い地面を赤黒く染めていく。

「お…………い、ひじ……聖璃ッ!!」

脳が状況に追いついた途端、紫魔は弾かれたように飛び出した。心臓が恐ろしいスピードで動いている。その鼓動のひとつひとつが、胸を突き破ってしまいそうなほど、大きい。だと、いうのに、身体中に流れる血は、一瞬にして凍り付き、熱を無くした。
その傍に駆け寄った時、紫魔の左目に違和感が走った後、激痛が襲った。

「ッ……ぐっ……!?ぁ、ぐゥ……!」

思わず押え付けると、指の間から生暖かい鮮血が流れていく。目を攻撃された。片目に映る、口の端から血を垂れ流す聖璃が霞む。見渡そうと顔を上げると、今度は頬へ傷が走る。歯を食いしばった。

「何処に……いやがる……!」

すると、紫魔の視界が緑の壁に遮断された。木々の枝葉が集まって固まったような壁は、分厚く紫魔と聖璃の周りを、守るようにしてドーム状に囲っている。紫魔は片目を素早く聖璃へ向けた。

「お、まえ」

聖璃の手のひらは地面に触れている。手のひらに触れた無数の小石を植物に変え、その動きを操り壁を作った――考えは容易だが、問題はそれよりも、その身体の状態だった。紫魔は周囲への警戒を怠ることなく、聖璃の身体を抱え上げる。

「聖璃、っしっかりしろ……!」

聖璃は僅かに薄目を開けると、はくはくと口を動かした。赤い唇を震わせ、何かを伝えようとしている。

「……?」

二音――呟いた後に、止まって、繰り返している。紫魔はその唇を注視した。聖璃のメッセージを汲み取るために。左目から溢れる血液が煩わしい。早打つ心臓が五月蝿い。

(落ち着け……天道紫魔……!テメエの頭は何のためにある、この俺の脳は何をするためにある、考えるためだろうが……考えろ、聖璃の言葉を……察しろ!この状況を……!暴け!敵の攻撃を!!)
「……――……」

ひゅうひゅうと聖璃の喉から風に似た息が漏れている。紫魔は凍る背筋を見て見ぬふりをした。

(……風?)

紫魔は改めて聖璃の口の動きを凝視した。二音……そして、未だ分からぬ「見えない攻撃」……。

「……か、ぜ……か、聖璃」

こくり、と、聖璃の頭が頷いた。紫魔は咄嗟に掌を翳す。

「なら話は早い。真空の壁を俺とお前の周りに張る……!何人たりとも俺とお前に近寄らせはしねえ!!」

すると、植物の壁の一部が見えない何かに切り裂かれる。紫魔は反射的に音の聞こえたそこへ掌を向け、真空の壁を張った。鋭く枝葉を切った刃は、紫魔には届くことはなかった。紫魔はそれを見届けると、ほとんど使われることがなかったケータイを、ポケットから引っ張り出した。

「もしもし、重傷の怪我人がいます……至急救急車をこちらに向かわせてください、場所は――」

後方から聞こえた葉を切り裂く音に、今度は後ろへ手を翳す。聖璃を貫いた刃は
真空の壁に守られ、決して届かない。

「はい。……腹を刃物で貫かれています。……分かりました、お願いします」

黒いケータイを切ると、元通りポケットにしまう。ぐるりと囲われた緑の壁に、耳を澄ませる。

(この壁は、ただ敵から身を隠すために張ったのではなく……攻撃の方向を知らせるためでもあったのか)

あの、ほんの一瞬にして、ここまで。
紫魔は口元に笑みをたたえた。くつり、と、喉を鳴らす。

「……聖璃。お前が命を掛けて作ったこの壁……この俺が、活用してやる。この世界の誰よりも有効に……な」

見下ろした聖璃の顔は、苦しそうには変わりなかったが、ほんの少し微笑んでいたような気がした。
紫魔は割かれた葉の切り口を片目で凝視する。ひらべったく薄い。聖璃の腹は包丁にでも貫かれているようだというのに、紫魔を襲った刃も今襲いかかる刃も、それに比べたら小さく薄かった。

(何故だ?……襲っている奴は紋章の能力者に違いない。風の規模を操れたとしても、まるで……聖璃の時は本気で殺そうとして、今は試しているだけのようだ……壁があるのに飽きずに攻撃して来るのも、ここまでやっておいて急に頭が悪い……)

紫魔の頭に、ひとつの考えが閃いた。――同時に、息を詰まらせる。その仮説にある、あまりにも恐ろしい策略と、おぞましい狂気に。

(……俺の考えが正しいなら……)

紫魔は立ち上がりながら、左目を抑えていた手を外した。指先と瞼から流れた血が、服と地面をぽたりぽたりと濡らす。痛みに痙攣する目も開いた。

「止めろ」

凛と、低く声が響いた。怒りにも似た真摯な声色と、力強い調。

「分からない程、お前は馬鹿じゃないだろう?……俺と、天道聖璃の勝ちだ。救急車も来る。今日は撤退しろ」

無言の時が流れた。遠くから救急車の音が聞こえた時、場に張り詰めていた殺気が緩んだような気がした。紫魔はふと息を吐くと、聖璃へとしゃがむ。着ていたシャツを破り、圧迫するように傷口の上から押さえ付け、胸部を抑える。聖璃が意識を失ったからか、緑の壁は枯れて崩れ落ちた。

「……死ぬな」

ぽつりと落とされた言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。







病院に運ばれると、聖璃はすぐに緊急手術を受け、紫魔は目と顔の治療を受けた。紫魔の左目は眼球に異常はないものの、皮が切れてしまっているため、暫く眼帯を付けることになった。頬にはガーゼが付けられたが、鬱陶しいのですぐに剥がした。
聖璃は貫かれたのが胸でなかったこととが幸いしたらしく、命に別状はなかった。しかし傷は深く入院が必要になり、チームヘヴンはしばし三人で行動を共にすることになるだろう。紫魔は面倒だった。

「…………」

紫魔は聖璃の病室の前に立っていた。札には「天道聖璃」の文字しか書かれていない。家のおかげか優遇され、個室が用意されていた。中に今は誰もいない。遠慮することはない。それでも――紫魔は背を向ける。出口に向かって歩き出す。その途中、小さな花束を握りしめた青年とすれ違った。

「あれ?……あっ!聖璃のとこにいるレアキャラじゃん!」

弾んだ声に、紫魔は足を止めた。にかっと笑った口から八重歯が覗いている。紫魔は右目を丸くした。

「……聖璃の……」
「公島弘夢!な!ん?今扉見てこっち来たよな?中入らないのか?」
「…………今あそこに入るのは、俺じゃねえ」

紫魔は静かに息を吐いて、再び歩き始めた。自分より低い位置にある弘夢を、すれ違いざまにくしゃりと撫でる。

「今から面会時間終わるまで、あいつから目を離すな。……あいつを頼んだぜ」
「頼んだ?…………分かった!オレ、とにかくずーっと聖璃のこと見てれば良いんだな!」

任せろ!と意気込む弘夢に、紫魔は振り返ることなくひらりと手を振った。色々あったせいで、もう日が沈んできている。紫魔は強く前を見据えた。決意と覚悟をその胸に秘めて、歩き出す。
紫魔の姿は黒い髪も相まって、あっという間に街の中に溶けるように消えていった。