01

試合を開始した直後、その場にいた全員に拭えない違和感があった。聖璃が木製の弓矢を取り出しているのに対して、天翔の手には何も持たれていないのだ。
試合が始まったとは言えど、意気揚々と素手を構える天翔に、聖璃は矢を下ろす。

「天翔さん……付かぬことをお聞きしますが、武器は?」
「いらないってか、買えないんで!俺はこれで勝負です!」

ぱしん!と拳を合わせた後、再びゆるりと構える。見様見真似のような隙だらけであったものの、その瞳からは充分な闘志が伺えた。聖璃は静かに頷くと、弓を構えた。

「分かりました……行きます!」

引き絞った弦には、矢の形を象った枝がセットされている。天翔は脇目も振らず大地を蹴った。
矢が放たれ、風が唸る。直前、僅かに天翔は体を捻り、数センチ走る身体をずらした。頬と矢が今にも衝突せんばかりに近寄り、すれ違い、天翔は右脚を高く振り上げる。
天翔の脚と、聖璃の右腕が交錯する。十字に交わった体は、力が込められてお互い押し出そうとするが、突破出来ないと判断した天翔が素早く退いた。

聖璃は手のひらから透明な泡を浮かべ、地面に突き刺さった枝へと、ボールを投げるように飛ばす。枝に当たって弾け飛んだ泡は地面を濃く染めた。そして、聖璃は持っていた弓と、握っていた矢を場外へと放る。
フィールドを仕切る柵を、褐色の手が力強く掴んだ。壊れてしまわない程度の力で、ギリギリと握り締める。僅かに目尻を吊り上げながら。

「聖璃、お前一体どういう……!」
「そこで見ていてくれ、紫魔」

聖璃は息を吸い、弾かれたように走り出した。右腕を掲げた後に、姿勢を低くして天翔の懐へ弾丸のように身体を押し入れる。重なって地面へと雪崩こみ、天翔の背が硬い大地へと叩きつけられようとした瞬間、上半身を浮遊感が襲った。背を「何か」に支えられ、持ち上げられ、床に足の裏を着地させられる。
天翔は有り得ない現象に目を見開き、辺りを見渡した。
柵の向こうで見守っていた仲間の姿が、見えない。緑の「壁」に遮られてしまったからだ。弾けて落ちた泡に含まれていた緑の力が、亜熱帯に生えるような太い蔓の集合体を作り、ぐるりと取り囲んでいる。柵の中に作られた柵。背伸びすれば辛うじて見えるかもしれないが、そのようなことをしている余裕もない。
蔓は三本、螺旋状に巻き上がって二人を取り囲むことに使われており、二本、天翔と聖璃の背後で根を張り、意思を持つようにうねっている。天翔がそれを見上げていると、腹の底から悪寒のようなものが湧き上がった。咄嗟に飛び退くと、大胆に繰り出された脚が目の前に伸びている。僅かに前髪を蹴った。
素早く天翔が身構えると、聖璃は精悍な眼差しで天翔の瞳を見つめている。

「僕は今から、天翔さん、貴方を試します。やるならば、今しかない」

声の柔らかさはなりを潜め、小さな刺が顔を出す。しかし、それは無意味に傷つけるようなものではないと、天翔は理解をしていた。

「あ……あのっ!ひとつきいても、いいですか!」

思わず口を挟むと、聖璃は驚いて目を見開いた。

「さっきの蔓で俺を助けてくれたのは、何でですか!?こういうのって、相手をしばったり倒すためにやるんじゃないですか!」
「――それは今から明らかになります」

畳み掛けるように飛んできた言葉を、聖璃は静かにいなした。


「…………音声も吸収か?余計な機能を付けやがってアイツ……」
「あ、あのさあ紫魔、なんでそんな怒ってんの……?確かに聖璃がこんなことしたの初めてだけど」

明らかな舌打ちを交える紫魔に、横に立つヒカルは恐る恐る見上げた。紫魔はイラついた頭を落ち着かせるように頭を掻いた後に、ヒカルを見下ろす。

「考えてみろ、アイツはわざわざ相手に有効な武器を捨てて、向こうに有利なフィールドまで作りやがったんだ。考えられることなんざ一つしかねえだろう」
「えー?なんかそれ、自分を倒されたいみたいじゃん……ってえっ!?」
「みたいじゃないだろうな、恐らくは」

ヒカルの横で雲母が小さく首を振る。ヒカルは途端に不安に駆られた。普段の彼なら問題はないが、今だけは、彼には明確な弱点があるのだ。


焦って蹴りを出そうとしても避けられる。まるで紙を相手にしているようだった。あと少しというところで、ひらりと身を躱す。
じっくり見ようとしたら、向こうから攻撃される。手を止めることは許されない。頬に聖璃の足がかすり、摩擦で痛いほどの熱を帯びた。
たとえ探るような拳を繰り出したとしても、簡単に受け止められる。決して衝撃を受けない壁がある分好き勝手出来るというのに、聖璃の受身は、天翔にそれを許さなかった。

「相手を見るあまり攻撃が疎かになってはいけません、そうしたら――」

ガッ!と鋭い肘の殴打が天翔の胸元に打ち込まれる。よろめいた身体は蔓が立て直してくれるものの、打撃が和らぐ訳ではない。詰まった肺が逆流して、大きく咳き込む。

「驚くほどに隙が出ます。こうしてカウンターを食らってしまい、攻守が逆転することになります」
「ッ……ゲホッ、はっ……!」
「身体は熱く、頭は冷静に!さあ、先程言ったように、僕の弱点を探して、そこへ打ち込んで来てください……!もし出来ないのなら、終了時間間近に僕はこのフィールドを解いて、貴方を倒します!」
「!」

天翔は脳裏に、己の負ける姿が過ぎった。
聖璃の名を告げる審判の声と、疲れ果てて倒れ伏す天翔自身の身体が、ありありと想像出来る。胸に重くのしかかるだろう敗北の味。

(負ける。勝てない、避けられる、受け止められる……)

打ち倒す想像が出来ない。聖璃の弱点に、たたき落とす自分が見えない。天翔は直感的に理解をしてしまった。手加減をしてもらっていても、実力の差は歴然だ。今どんなに頑張っても、勝てる気がしないと、頭は告げていた。
僅かな時間、天翔は思考の闇に落ちた。ふと、天翔の瞳から明かりが落とされる。

(嫌だ)
(負けたくない、俺は、負けたくない、俺は……俺は、いやだ、負けたくない)
(そうだ俺は、ただ、強く――)

俯く天翔の耳元に、囁くような風が流れた。目を瞑り、耳を澄ます。天翔は、そこに佇む声を聞いた。

「……………………聞こえてるよ、母さん」

微かな独り言だったが、次に備えている聖璃の耳には何とか届いた。
次の瞬間、聖璃の正面から、爆風が吹いた。ヒシヒシと身体が押され、後ろの蔓も折れそうな程に曲がっている。一瞬の間に大きな影が聖璃の目の前に現れ、思わず体を丸めるような防御の体制を取った。
肩に衝撃が走り、そのまま「押される」。踏ん張った膝がざりざりと地面を削り、蔓の根元に背がぶち当たった。

「――ッ!」

息を吐き出す隙もなく、横から脚が襲ってくる。腕を出してガードをするも、すぐ様顔がぐんと近付いた。まるで何かに、後ろから押されたように。
刹那、聖璃の目の前に、白い火花が散った。天翔から繰り出された掌が、勢い強く腹に押し込まれたのだ。更にただ古傷を押されるだけでない、触れられた箇所がねじ切られるような感覚に、聖璃は声を出さずに悶絶した。
縫われ、塞がった傷が、ぷつりと切れる音がする。聖璃は咄嗟に背へ手を回し、蔓を作っていた能力を解いた。

二人を囲っていた植物は砂のように崩れ、視界が拓ける。
呆けたように目を瞬かせて立ち尽くす天翔と、その足元で腹から血を滲ませて寝転がっている聖璃に、審判は片手を挙げた。

「試合終了!第一回戦、チームハヤブサの勝利!」

判決は下されたものの、中の様子が他から見れないため、外野も盛り上がると言うよりはざわついているという方が正しかった。
天翔はおずおずとしゃがんで、聖璃の顔を覗き込む。痛みに細まりながらもやさしい光が宿った翡翠色の瞳と、視線が合った。天翔が俺、と言いかかった時、天翔と反対側にしゃがみ込む人影が現れる。

「自分から傷を開かせるなんてどんな愚か者でもやらねえことだ、なあ、聖璃」
「……今しか、出来ないと思ったん、だ。こんなに、強いのは、予想外だった……けど……ッ――」
「あ!あの、俺、大丈夫なんですか、これ」

紫魔と聖璃のやりとりに、焦ったように天翔が割り込む。聖璃の腕を肩に回しながら、紫魔は眉を下げている天翔の顔を見た。

「殺さなきゃ良い。そういうルールだ。これくらいの事で慌ててたら、これから先やって行けねえよ」
「……そうですか」

ほっと息を吐く天翔を、紫魔は鋭い目付きで睨む。

「だが忘れるな。今お前が勝てたのは、この甘くて手ぬるいコイツが加減をしていたからだ」
「し、ま」
「黙ってろ。……これでコイツより強くなったと思うな。自惚れが招くのは身の破滅だ」
「はい。それは、すっげー分かってます」

鉛のような重みが乗せられた声に、天翔は真摯に頷いた。
武器を捨て、フィールドを作り、弱点があることまで晒して、初心者向けのハンディマッチをしてくれたのは明確だった。試合を終わらせるだけなら、植物を天翔に襲わせるだけで済んだ話なのだから。言わばロールプレイングゲームにおけるチュートリアルだったことは、天翔にもよく分かっていた。

「ありがとうございますっ!」
「……いえ、僕こそ……っ」

頭を下げる天翔に返事をしようとすると、聖璃の腹からじわりと血が滲む。
申し訳ありません、と苦く笑ってから、聖璃と紫魔は天翔から離れた。柵で待機している二人へ行く前に、小声で聖璃が呟く。

「お前に……よく、似ている子だな」
「だから手加減するなっつったんだ。どうせあの中で稽古でも付けてたんだろ」
「あ、はは……分かるか……」
「想像が付くぜ、お前がやりそうな事なんざな」

柵を超えると、慌てた様子のヒカルと眉間に皺を寄せてため息を吐く雲母が出迎えた。爽やかではない雰囲気に、聖璃は眉を下げて笑う。

「一敗、ですかね」
「いやそーゆーのじゃないっての!マジさっき血流して寝転がってた時こっちの血の気引いたかんね!?」
「関心は出来ないな」
「言いたい事言ったか?医務室に連れていくぞ」
「あ、まっ、てくれ、紫魔」

そのまま腕を支えて連れていくつもりが、聖璃の言葉に制止された。嫌な予感が過ぎり、睨むように表情を伺えば、聖璃は真っ直ぐ紫魔を見つめていた。

「このまま、見させてくれないか。傷は、後で良いから」
「……そこまでして気になる理由は何だ?」
「少しでも、見たいんだ。彼らが、あの子を、支えられるかどうか」

ちらりと聖璃は柵の向こう側にいる天翔を伺う。待っていたメンバーに質問攻めにされて、困ったように頬を掻いているようだった。
紫魔は聖璃を支えていない方の手をかざす。

「聖璃、適当に木を一本植えろ」
「え?う、うん」

聖璃は背に残っていた砂を摘み、やや未発達ではあるが木を植える。低い位置の幹がスッパリと切られ、人が一人座れる程の切り株が出来上がった。そこに下ろすと、紫魔は体を離す。

「次の試合は特に興味ねえ。包帯と痛み止めでも持って来る」
「あ、ありがとう紫魔」
「お前がその面をした時はテコでも動かないって知ってるからな」

紫魔は静かにその場を去る。その背を見て息を吐くと、聖璃は作戦会議を始めている残り二人に目を向ける。聖璃の負傷を受けてか、二人の表情は真剣だった。
聖璃は腹部に出来た赤黒い染みを見る。あの時、殴りつけられただけなら、ここまで傷は開かないはずだった。あの、腹をねじられたような衝撃がなければ。

(彼は、一体どんな能力を……)

結局それは、一度も口に出していない。対抗戦が終わった後、医務室へ行く前にひとつやる事が出来たと、聖璃は拳を握った。